葬送儀礼と癒し  4/6

堀 剛

第3章 葬儀関連の表現と人間の癒しについて

1. 集合無意識と表現

Jung CG(1950/1991,p184.)は曼陀羅の役割について、「混乱を秩序へと移すという目的」を持っていると指摘する。また、特徴的なのは、クライアントは自分がそれを表現しながらも、なぜ曼陀羅が現れたのかを自分では意識していないと指摘する。人は知らずと自己の混乱を鎮めているのである。興味深いことに、これらは誰においても共通して起こる。

少し題材が異なるが、Jung CG(アイオーン1951/1990,p219.)は神の存在、像について「神の像は発明されたものではない。みずから進んで人間たちの中から歩み出てくる一体験である」と述べている。転回点の表現がそうであるように、表現の内容は彼方から来るのであり、人の側で任意にそれぞれに作られるのではない。しかも、それらは普遍性を持ち合わせている。神について言えば、人間の側から定義された神が存在するのではなく、その存在は到来するのである。このようなことが起こる理由として無意識の世界の存在が想定されざるをえないし、それゆえユングが集合無意識の存在を提唱したことは今さら言うまでもない。

ユングは無意識を個人的無意識と集合無意識に分ける。顕在意識とは切断されたものが無意識であり、それは意識されていない限り無意識なのであるが、ユングはそれが外界の事物、すなわち象徴に投影されることで意識化されると考える。すなわち無意識がそのまま直接、言語的に意識化されるのではなく、象徴を介して間接的に表現されてくるのである。

ユング心理学では意識の背後に個人的無意識があり、更に、深く普遍的無意識すなわち集合無意識が存在すると考える。更に、自我は意識される部分であり、その背後に無意識の自己(セルフ)が存在する。外的な刺激に対して意識をもって反応するのは自我(Ego)領域である。樋口(1991)は「夢などのようにたとえ無意識にとらえられる無意識の一部分があるとしても、それが捕らえられた瞬間にもう無意識ではなくて意識化されるのだから、無意識そのもの(per se)は永遠に我々には隠された存在としてある」と述べている。また、無意識が存在するとすれば、それは非概念的であり、非言語的であると思われる。それゆえ、転回点の表現が起こる時、非概念的なものと意識的なものが出会うのである。そして、見えない自己、すなわちセルフと意識のうちにある自我の関係の調節がクライアントに生起し、仏教用語で言う自他一如の状態が生起して来ると思われる。曼陀羅が自己を象徴するのだとすれば、曼陀羅表現において仏教等で言えば、自他一如がそこにあり、身体性も含めた癒しが到来していると考えることができよう。また、墓石、十字架等の表現は死と再生の象徴であり、それぞれに身体性を含めた気づきにつながっていると思われる。


2. 箱庭療法における葬儀関連の表現

これまでに墓石、屋敷墓や十字架、そして曼荼羅などについての意味を考察したが、箱庭療法などでイメージ表現としてこれらの表現が展開された場合、その表現を行うクライアントが大きな心的変化を迎えることが多い。時には人生の状況を克服するケースも存在する。あるいは逆に症状が悪化するような場合もあるようである。幸いにも筆者は症状が緩和していくケースを多く見ることができている。

筆者による私設の心理療法室におけるセラピーで行われた転回点の表現の一部を報告し、これらが事実であることを示したいところだが、詳しい内容は大幅に割愛する。注6.

だが、葬儀関連の箱庭療法での表現の事例のみ列挙しておきたい。これらの表現は複数名のクライアントによってなされたものであるが、実際の写真等は割愛する。


・砂を円形に盛り上げ、タイルとビー玉で曼陀羅が作られた。

・箱庭内部がおはじきで四分割され、四角曼陀羅が制作された。

・ストーリー性がある箱庭表現がセラピーにおいて繰り返され、灯台が中央にある島が作られた。

 構図は曼荼羅であった。

・症状が安定してきたクライアントは箱庭に二つの十字架と花を置き、その前に恐竜の骨の玩具を

 置いた。これは墓あるいは葬りを象徴していたと考えられる。

・箱庭に和風の家の模型と墓を置いた。これは屋敷墓であった。

・箱庭に、池があり、仏像が左上に置かれ、右下に家がある箱庭表現を行った。

・仏像を置くなど、宗教的かつ儀式的なものが時折表現された。

3: セラピーの転回点で現れる葬儀関連の表現

先に述べた転回点の表現には同時に気づきや割り切り、時には癒しがともなっていることが多々あった。そこで、葬儀においても転回点の表現と等しく、葬送の儀式は人に心理的変容をもたらすのではないかと言いたい。それゆえ、人は葬儀という儀式においても癒されるのである。葬儀は人間が人為的に行うものであるが、そこには意識を超えた無意識へと通じる多くの言い表しがたいものが潜んでいる。

例えば、チベット密教では地面に意図的に曼陀羅を描いて瞑想に入り、あるいは壁面などに描かれた曼陀羅を眼前にして瞑想を行う(ツルティム・正木,2003, p22)などするように、人間の側から無意識の世界への働きかけを行うことが可能である。これと同じく、葬儀においても心を静めて人を導き入れるものが備わっている。もっとも、その程度や質は葬儀の状況とそこにいる人の心のあり方によって、差異があるだろう。だが、葬儀は本来そのようなものであったのではないのか。葬儀の時間が悲しみの時であっても、それを癒しの時とすることは十分に可能であるし、葬儀においてはそのような癒しこそ実現されねばならないだろう。

仏教絵画に九相図と呼ばれるものがある。これは亡くなった後の女性の遺体の変化を表す九枚の絵である。屋外にうち捨てられた絵や、やがて死体が朽ちて行く場面など、その経過が一枚一枚に描かれる。鳥、獣に喰われる光景、朽ちて白骨化する姿などが描かれている。このような絵を見て行う瞑想は九相観(九想観)と呼ばれている。

ところで、ティク・ナット・ハン(2012)は、このような瞑想はブッダの在世時から行われていたと述べている。もともとは絵を見て行うものばかりではなく、ティク・ナット・ハン(2011, p.98.)によると「かつて修行者は、実際に墓地に行って坐り、死体がこうしていくつもの段階を経て分解していく様子を観察」したと言う。更にティク・ナット・ハンが紹介する『四念処経』に記された瞑想も同様のものである。注7. その瞑想は九段階に分けられ、第一段階として、遺体が「膨れ上がり、青黒く変色し、腐乱した死体」を想像することから始まる。第二は「ウジが這い回り」、第三「わずかに血と肉がこびりつく骸骨」となり、やがて、第九では「骨も朽ちて、塵の堆積ばかりの死骸」を想像する。

これらの観想、あるいは瞑想の目的は死に対する恐れを取り除くためのものであると想像されるが、ティク・ナット・ハン(2011, pp.98-99.)は、むしろそれが癒しにつながることを指摘する。「気持のいい瞑想だとはとても思えないでしょうが、ここから目覚ましい効果が期待できます。この瞑想からは解放感と深い安らぎ、喜びがもたらされるでしょう。入念な観察によって私たちは死体の各段階を一つひとつ確認し、自分の肉体も同じ段階を経ていく運命にあるとわかります。」と言う。そして、更に「この瞑想の目的は厭世的になることではなく、いのちの尊さを知ること、悲観に走ることなく、いのちの無常の本質を見究め人生を無為に費やさないことなのです。」と述べている。

瞑想は人間が自らに働きかけるものであるように、心理慮法の箱庭療法もまた自らに働きかけるものである。ただ、その転回点においてはクライアントは知らずに無意識の側から到来する気づきに出会うのである。それゆえ、葬儀もまた人為的に行われるものであっても、それが持つ様々な要素は人を心理変容へと導き、癒しをもたらすと考えられる。

たとえば、東寺に立体曼陀羅があり、そのような空間全体が人間の癒しを引き起こす。また、そのことが意図されている。同様に、葬儀の空間、儀式の様々な要素もまた人の癒しにつながるし、それらは古くから知らずと意図されてきた知恵であると言える。無意識の彼方から人に働きかけてくるものがある。それを可能とするものの一つが葬儀の空間と時である。