葬送儀礼と癒し 3/6
第2章 葬送と墓石、十字架などの意味について
本章では葬儀に関連する墓石、屋敷墓、十字架、そして更に曼陀羅などの意味を考察する。日本においては特に墓を築く文化は歴史の中で定着してきた。これらが、人の心の状態とどのようにかかわっているのかを考え、そこに葬儀と通底するものを考えてみたい。
因みに心理療法の技法の一つである箱庭療法では、十字架、曼陀羅、砂曼陀羅、四角曼陀羅、墓石などが表現される場合には何らかの心の転回点に至っていると思われることが多い。すなわち、その人の悩みや問題への何らかの区切りと気づきなどが転回点で起こることもあるし、更に次なる課題、問題へと目が行く場合もある。これらは特に年配者というわけでもなく、子どもでもそのような表現が用いられることが多々ある。
そこで、次に墓石などの表現が何を意味するのかを考えてみたい。
1.墓石
四角柱の墓石は一般的な日本の墓石である。だが、日本には五輪塔という古くから仏教の諸宗派によって建てられて来た墓石が存在する。保安3年(1122年)以後、平安時代の五輪塔は寺院の瓦に表わされたものを含めても19例しかないが(石田,1969, p112.) 、室町時代頃には五輪塔は非常な勢いで全国に普及した(木下,1994)。たとえば、高野山奥院では永享十一年(1439年)の在銘一石五輪塔を初めとして、一石五輪塔型の石塔の数は数十万基に及ぶ。(木下,1989)。
五輪塔のそれぞれの石には五元素名が、宝珠形(空)、半円形(風)、三角形(火)、円形(水)、方形(地)の順に記されている(石田,1969, p111.)。これらは梵字の表記であり、五元素(空、火、水、地、風)は、身体の頭部、咽喉、心臓、臍、会陰部に順に対応すると考えられている (Clifford T, 1984/1993,p100.)。注.2, 3.
そもそも、世界はこの五元素から成るという独自の宇宙的世界観が密教思想に存在する。「大日経 秘密漫荼羅品 第十五」の中に次のように記されている。「真言者は円壇を 先ず自体に置け 足より臍に至るまで 大金剛輪を成じ 此れより而も心に至るまで 当に水輪を思惟すべし 水輪の上に火輪あり 火輪の上に風輪あり 次に応に持地を念じて 衆もろの形像を図すべし」(福田,1998)。
人体もまた五元素によって成ると考えられ、五輪塔は人体を表わす身体表現でもある。「人は五大の組合せによって生きていると共に、死は五大が分離して元に帰る」 (石田,1969, p119.)とも言われる。
現代の日本の一般的な墓石である長方形の石柱の墓は、江戸時代には五輪塔と併存して存在していた。しかし、そもそも五輪塔の方が日本では非常に一般的な墓石であった。そして、五輪塔は身体を表現したものであった。
2.屋敷墓
日本の田舎の家の庭には墓があるのを見かけることがある。屋敷の裏や隣接する空き地に、家の墓をもうけるのを「屋敷墓」と呼び、全国に散在する(新谷, 関沢 2005)。後述する箱庭療法の表現の中で屋敷墓が作られる際には、その墓は表現者自身の墓であるよりは、その屋敷に住んだ人が意識されているのかもしれない。あるいは家族との関係性などが表現されているかもしれない。屋敷墓が置かれたことは、そこに取り巻く人間関係への何らかの割り切りが、墓という終局的な象徴をもちいて表されているように思う。
3.十字架
ローマ帝国が政治犯の処刑に用いたものが十字架である。キリストもまた政治犯であった。十字架は人体を形取っている。それゆえ、十字架もまた墓石と同じく、身体表現である。
キリスト教教義における十字架はキリストの死を意味するだけではなく、死からの復活も象徴されている。要するに、死がなければ復活もない。十字架は、死からの復活の象徴でもある。新約聖書のローマ書6:8には次のように記されている。「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」。これは死と再生を言い表している。
心理療法での十字架というイメージ表現は、それを表現する人自身思いが自分で意識されていなくても、古い自分を葬り去り、新しい自分への出発を表すように思える。ある一つの区切り、割り切りを象徴していると思われる。十字架、墓石は死と通底しているが、そのことはまた蘇り、あるいは再生とも直結している。
4.曼陀羅
曼陀羅は直接葬儀と関連するものではないが、ここで取り扱っておきたいと思う。これは自己の全体、あるいは中心を表していると理解される。そのような表現が起こる時、癒しもまた到来すると思われる。なぜそうなのか、なぜそれが表現されているのかを表現者自身すら明確に語ることはできない。それはひたすら表現者の内面から湧き上がってくる現象なのである。
樋口(1978)、山中(2002, 2003)らが指摘するように、曼陀羅は必ずしも問題が解決される転回点に現れるだけでなく、更に症状が悪化するケースにも現れる。事例を詳しく述べることは差し控えるが、箱庭療法で曼陀羅の表現を行った人が、その後、症状や問題解決への糸口を見出していくことに驚かされた経験が筆者にはいくつもある。
Jung CG(1954/1999,p68.)によれば、「マンダラは個性化のシンボルである」とされる。また、Jung CG(1932/2004,p76.)は四角曼陀羅についても言及しているが、曼陀羅の「モチーフには多くの種類があるが、しかし、いずれをとっても円の四分割を基礎にしている。」 (Jung CG,1950 /1991,p179.)とも述べている。更に続けて、「自己は、一方では単一のものであるが、他方では最高に複雑な複合体・インドの観念を借りれば「集塊状の魂」である。」と説明する。
「インドの観念」とは、リグ・ヴェーダやウパニシャッドにおけるブラフマン、アートマン、プルシャなどのことである(Jung CG,1932/2004,p108.)。また、Jung CG(1951/1990,pp250-251.)はブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(3・7・15・23)では、「自己(ゼルブスト)」がブラフマン(梵)やアートマン(宇宙我)としてとらえられていると指摘している。注4.
タイティリーヤ・ウパニシャッド2・6では、「彼(元初の一者)は、「多くなろう、繁殖しよう」という意欲をおこした。彼は苦行を修めた。彼は苦行を修めて、この世にあるどのようなものにせよ、そのすべてを創造した。それを創造したのち、彼はまさしくそれに入りこんだ。」と記されている(服部,2005, pp152-153.)。この記述は汎神論的な思想を読みとるうえで極めてわかりやすい。創造者が宇宙を創造し、その後、自らその宇宙へ入り、創造者と被造物世界が同一あるいは同根であることを示している。創造者が作り出した被造物の中に、創造者自らが「入りこんだ」とされ、ここに創造者と被造物である宇宙が同根であるという汎神論的世界観を読みとることができる。この考え方は、ウパニシャッドの歴史において、やがてブラフマン(梵天)とアートマン(我)との一如、すなわち梵我一如の思想へと結実して行った。アートマンについてウパニシャッドでは次のように記されている(湯田,2000, p76.)。注5.
思考の中に存在し、思考と異なり、それを思考は知らず、それの身体が思考であり、思考を内部にあってコントロールするもの--これが内部にあってコントロールする、不死である、お前の自己である。
(ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド3・7・20)
認識の中に存在し、認識と異なり、それを認識は知らず、それの身体が認識であり、認識を内部にあってコントロールするもの--これが内部にあってコントロールする、不死である、お前の自己である。
(ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド3・7・22)
アートマンは「思考と異なり、それを思考は知らず」、「認識の中に存在し、認識と異なり」、かつ、「内部をコントロールする」。そして、「不死」であり、それが「自己」であるとする。アートマンは所謂顕在的に意識されるものではなく、ユング心理学におけるセルフにも似ている。
アートマンは、アイタレーヤ・ウパニシャッドでは宇宙や人(プルシャ)の創造者として位置づけられ、創造神ブラフマンとの関係が多少混乱したものとなる。もともと、各ウパニシャッドは個別な文献であり、成立年代も異なり、細部においては思想表現に相異がある。しかし、アートマンはユング心理学のセルフと言い換えることができると思われる。
次の記述では、アートマンとプルシャ(人体)と精神の関係が記されている(湯田,2000, p371.)。
まことに、ここには、最初、自己(atoman)だけが存在していた。それ以外に、瞬きしているものは何一つなかった。それは考えた-「さあ、わたしは諸世界を流出しよう」と。・・略・・それは考えた-「さて、これらの世界が存在する。さて、わたしは、諸世界の保護者たちを流出しよう!」まさに地下の水の中から男(purusa)を引き出して、それは彼に形体を与えた。
(アイタレーヤ・ウパニシャッド1・1・1・1-3)
ブラフマンが創造神であるはずだが、上記のアイタレーヤ・ウパニシャッドでは、アートマンもまた創造者のごとく記述されている。一見紛らわしく見えるが、ウパニシャッド思想全体の流れの中で示されている宇宙的原理としてのブラフマンと人間の主体原理であるアートマンとの全一的冥合、すなわち梵我一如という考え方からすれば、究極的には両者は不可分一体であるとも言える。それゆえ、アートマンもまた創造者であると理解することも可能である。
ウパニシャッドでは、神という一者が新たに何かを作り出すのではなく、流出するのであり、流出物は創造者と同質であり、世界は汎神論的なものとして構築されて行く。それゆえ、アートマンとブラフマンが同根であり、一体であるという梵我一如の思想が生まれてくる(辻,1990)。
一切行を作し、一切欲を具し、一切味を有し、この一切に遍満し、言語無く、関心なきもの、これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。これブラフマンなり。この世を去りて後、われはこれに合一すべしと、[意向]あらん者には、実に疑惑のあることなし。
(チャーンドーギヤ・ウパニシャッド3・14・4)
このようなウパニシャッドにおける梵我一如の思想は、ユング心理学でいうセルフと自我との関係が調整された状態に近いものであると思われる。また、梵我一如は主客を越えているのであり、思惟的認識の対象ではなく、まさに体得であり、感受されるべきものである。セルフは個人的な無意識と集合的無意識が重なる領域であると考えると、梵我一如とはセルフであるアートマンと集合的無意識であるブラフマンとの合一であり、同時に自我との関係が調整された状態と解することができる。換言すれば、ブラフマンとアートマンの合一、すなわち梵我一如、自他一如が生じている状態において人は人生の中にひとつの区切り、気づきを迎えるとも言えるだろう。それゆえ、梵我一如が可視的に表現されているのが曼陀羅だと思われる。そして、箱庭療法で曼陀羅が描かれる時、セルフとしてのアートマンと集合的無意識の世界であるブラフマンが合一し、かつ自我に働きかけ、転回点をもたらしていると思われる。
梵我一如はあたかも究極の悟りのような印象があるが、箱庭表現の曼陀羅における転回点を考える時、梵我一如、主客一如の状態は普通に人間の心的内部に起こりうるものであると思われる。箱庭療法においては、セルフと自我との関係が充足した状態にある時、そこに梵我一如が起こっているとも言えるし、それが曼陀羅として表現されていると言って良いだろう。また、曼陀羅表現自体が梵我一如的な心の均衡を生起させるものとして働くとも思われる。
ところで、チベット密教には地面に曼陀羅を描いて瞑想をするものや、壁などに描かれた曼陀羅を眼前にして行う瞑想などがある(ツルティム・正木,2003, p22)。箱庭の砂をいじりながら、内を作ろうかと考えているクライエントが三つの円形の図形を描いたことがある(図9)。これもまた曼陀羅瞑想と言いうるかもしれない。チベット密教では、瞑想における「マンダラは、意識を統合するための第一歩として、悪魔から身を守ってくれる。悪魔や邪悪な力は、人がより高度なレベルの悟りに至るのを妨げるもの」とされ、曼陀羅には精神医学的な治療的効果や人間を守る力が秘められていると考えられている。更に、「マンダラは、否定的で邪悪な力が侵入できない防御壁を、その外郭部にもつよう構想された宇宙図である。人は、この規定された聖なる構成のなかで保護されているものとして観想する」と言われる (Clifford, 1984/1993,p223.)。
Jung CG(1950/1991,p184.)は言う。「マンダラは混乱を秩序へと移すという目的を持っているのである。ただしこの意図はその時患者には意識されていない」。このことは誰にとっても共通して起こる事象である。それゆえ、集合無意識から沸き上がる心の状態が可視的に表現されたものと言えよう。もちろん、それは知らずとそのようになるのである。