プロテスタント的瞑想の試み:その方法と理論
宗教も医術も人間の癒しを目的とする共通項を持っていると思われる。最近の心理療法においても、心の癒しや気づきには身体的癒しをともなうという考え方が一般的である。たとえば、E・T・ジェンドリン(Gendlin, E.T.)によって創始されたフォーカシングというセラピーの技法では、身体の感じに注意を向けることで問題解決や気づきに至ろうとする(26)。人が自分のいまの問題を考えるときに、身体はどんな状態かを感じ取る。身体のこわばりのようなものがあれば、それをフェルトセンスと呼ぶ。そしてフェルトセンスにアプローチする。たとえば、ひとつの方法として、心の中でフェルトセンスに向かって「こんにちは、どうしたの」というように語りかけていく。沈黙を経て、上手くすればフェルトセンスから何らかの応答が感じ取れる。身体はすべてを知っている。そして、気づきは身体を通して起こる。ジェンドリンはフェルトセンスを実存の表象として理解している(27)。彼は「実存は前概念的(preconceptual)で内的に分化可能(internal differentiable)であり、からだで感じられる(bodily felt)」と述べている。ここにでも言語や理性を越えたものとして、実存が体験的に感受されるものとして位置づけられている。
また、フォーカシングによって神をイメージし、神は自分のいまの状況をどう思われるかを感じ取ろうという技法がある。これはセラピーとして、クライアントの宗教に合わせて神や仏をイメージしてもらい、神や仏との対話をフェルトセンスを通じて行うものである。これによって、解決の糸口を見出そうとする。このような技法の一つがエルフィ・ヒンターコプフによって紹介されている。(28)
更に、カトリックのアントニー・デ・メロ(1980)は様々な瞑想方法を提唱する。彼の方法はキリストやマリヤの実像的なイメージを用いるものである。
なお、本稿では聖書テキストを加工しないで、プロテスタント的なあり方を意識した方法を提唱した。だが、プロテスタントの歴史があまりにも言葉重視の歴史であったため、瞑想を行う事への戸惑いや反発もあるかもしれない。しかし、宗教の目的や使命を考えるならば、瞑想はけっして横道にそれたものではないだろうし、本来の宗教性への回帰であると考える。
第6章 結 び
キリスト教的な悟りというものがあるとすれば、そこにも様々な悟りの段階があるのかも知れない。だが、たとえ、どのような高次な段階があったとしても、それはどこまでも感受されるものであり、論理よりも体験的なものとして存在するだろう。それゆえ、本稿では体験を基礎とする宗教の構築を念頭に置きながら、その一つの方法を提示したつもりである。ところが、ここには何ら新しいものなど皆無である。むしろ、これらは人が人であるゆえに既にあらかじめ持ち合わせ、存在していたものを使っているものである。それだからこそ、プロテスタントにおいても身体的なものを含めた癒しを、瞑想によって体験的なものとして取り入れたいと考える次第である。時代ごとに宗教の方法も変化し、求められるものも移り変わるかもしれない。だが、根源的なものを感受する作業が欠落することはあってはならないだろう。それゆえ、ひとつの方法を提示する次第である。