プロテスタント的瞑想の試み:その方法と理論
パウロ書簡にも次のような表現がある。「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです(コリント第一・六・一七)」。他に、Ⅰコリント 六・一九「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。更に、ガラテヤ書二・二〇「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。これらはパウロにおける合一思想を表現したものと解することができよう。
このようにヨハネとパウロの言葉が合一思想と関係するというとらえ方は、あまり一般的ではないかも知れない。むしろ、神秘主義的な読み方であるだろう。しかし、聖書のこれらの言葉はまさに合一について語っている。心理変容が人の心の中に生起するように、神との合一は理性、論理、言語という外部からの客観性を超えた心的体験として人の心に生起する。それゆえ、これらの聖書の言葉は一つの思想的立場の表明でもなければ、論理的に宗教的立場を説明するものでもない。個々人に起こる体験的なことがらを述べたものであろう。
では、宗教的イメージやメタファーはどのような役割を持っているのか。たとえば、礼拝の方法や奏楽、讃美歌等、それらはどれも論理的表現を介さずに、心理変容へと向かうための乗り物(vehicle)なのである。宗教的イメージという乗り物はそれ自体で完結したものではなく、それが指し示す先で合一および心理変容へと至るための乗り物なのである。人はそれゆえ、黙想、瞑想などにおいて宗教的イメージを感受し、神との合一に入る。それは心理変容であり、結果的に様々な気づきや癒しにつながると思われる。(18)
因みに、トランス・パーソナル心理学の理論的支柱をにない、最近ではインテグラル心理学の提唱者であるケン・ウイルバー(Ken Wilber)は、「合一」という言葉を使用せず、「統一意識」と呼ぶことを提唱する(19)。それは二元論的な対立を越えた意識であり、仏教では自他一如、梵我一如であり、かつグノーシスやキリスト教神秘主義においては神との合一に相当すると思われる。ウイルバーの統一意識においては、自己と非自己が一つの調和した全体となる。「自己」と呼ばれる内なる感覚と「世界」と呼ばれる外部は、一つの同じ地平の感覚として統一意識の中に置かれる。そして、自己とは宇宙であり、現在の体験の全体性にほかならない。
キリスト教の立場では神と人間は切断された関係にあり、それらをつなぐものとして、キリストの十字架が存在すると考える。だが、そうであるからこそ、キリストを通してわれわれは世界と合一するのである。先にあげたヨハネ福音書やパウロ書簡の言葉が指し示す「合一」を、これまでは一般的な神学(すなわち神秘主義とされる神学以外)では、特殊な神秘主義に対して距離をおいて受け止めてきたかもしれない。パウロ書簡やヨハネ福音書を文言どおりに読めば、そこには合一思想が存在するということは明らかである。
2. 合一と癒し
キリスト教の教義では十字架による罪の赦しこそもっとも重要であるが、それはともすれば、きわめて思弁的なものにもなりやすい。しかし、救いは肉体をも含むホリスティックな癒しとして理解されるべきである。罪の赦しが重視される限り、その経路としての身体性もまた無視できないはずである。
たとえば、異端とされたグノーシス主義者の一人であったエラクレオン(160年頃)は次のように述べていたという。
「「はじめのうちは、人々は他の人の証言のゆえに信じる・・・」が、その後に、「真理そのものによって信じるようになる。」(20)
この言葉は他者からの言語的な証言によって信じる段階から、直接的な体験によって信じる段階へと移行することを述べている。「真理そのものによって」とは、真理を感受するということに他ならない。体験的に感受するということを述べたものである。
あるいはW・ジェイムズ(2008)が「宗教的経験の諸相 下」において紹介しているドイツの理想主義者マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークの言葉は本質を言い表している。
「私は自分がいままでになかったほど熱心に祈っているのを感じた。そして祈りとはほんとうになんであるのかを、そのときに知ったのであった。それは、個別化の孤独から、存在する一切のものとの合一の意識に立ち帰ること、過ぎゆくものとして跪き、不滅のものとして起ちあがることであった。」(21)
更にキェルケゴールは次のように言う。
「それゆえ、彼は全身全霊をもって、祈ることに心を集中しようとした。すると、彼が心から祈れば祈るほど、彼に何かが起こる。驚くべき事が彼に起こる。次第に祈りがますます深くなるに従い、彼は少しずつ言葉を失っていく、そして、ついに彼は完全に沈黙する。彼は沈黙し、実に彼は祈ることは語ることではなく、沈黙することと知る。彼は聴く者となる。彼は祈ることは語ることだと考えてきたが、祈ることはただ沈黙することでもなく、聴くことだと学ぶ。祈ることは自分自身に話すのを聴くことでもなく、沈黙に至り、そして沈黙の内に留まることであり、祈ることは神に聴くまで待つことだと知る。」(22)
キェルケゴールの思想は有神論的な実存哲学の立場を形成したことで有名であるが、彼が批判したH・L・マルテンセンらの思弁的神学の根幹にはヘーゲル弁証法の右派的理解があった。それは理性的なものを宗教の中に取り込みながら、マルクス主義とは異なる方向性を宗教に見出そうとするものであった。しかし、そのようなヘーゲル的体系を基軸とした神学体系に欠落するのは個、実存の位置づけである。人が人として何を感じるかという言語以前の実存的体験や身体性がそこにはなかった。その意味でキェルケゴールがキリストとの同時性と呼んだものは、本稿でいう合一と置き換えて理解しても良いのかも知れない。
また、実際、東方正教会では「イエスの祈り」と呼ばれる(23))。これは「主イエス・キリスト、神の子、われを憐れみたまえ」という定型の言葉を繰り返し唱えるものである。そして、マントラは吸う、吐くという息のリズムと共に唱える。それは思考において理解するものではなく、呼吸を使った身体的な行としての要素もそこに含まれている。
あるいは、仏教用語である「止観」とは『広辞苑 第五版』では「心を一つの対象に集中させて雑念を止め(止)、正しい智慧によって対象を観察すること(観)。天台宗の中心となる行法で、漸次止観・円頓止観・不定止観の三種を立てる。」と説明されている。これと類似のものがキリスト教の祈りにおいて意識されたとしても差し支えないであろう。なぜなら、これは人間というものが持ち合わせる共通の心というものの扱いの方法でしかないからである。それらはきわめて自然なものとも言えるからである。
密教の身体論やヨガにおいても、医術と宗教は極めて不可分であり一体であった(24)。また、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。(マタイ福音書4:4)」というイエスによる旧約聖書の言葉は、人がパンによって肉体が培われ、同時に神の言葉によって心が支えられることを述べたものである。すなわち、人は精神と肉体のどちらも充足してこそ、健康なのである。(25)