プロテスタント的瞑想の試み:その方法と理論

堀 剛

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他に直接的伝達は、いったん自らの内に論理的に認識したものについて論理的に表現する場合にも成立する。たとえば、A=B=Cというように論理的に認識したものは、論理的に伝達すれば足りる。AはBであると語りうる。そして、BはCであり、よって、AはCであると言える。数式は誰が語った数式であっても、同じ意味を持っている。

整理すれば、直接的伝達が成立するには二つの場合がある。一つは指示語で指し示すことができる場合であり、もう一つは論理的、概念的なことがらについての伝達であり、極端に言えば、事象についての説明が数式化されるようなことがらである。しかし、この二つの中に宗教的体験は収まらない。なぜなら、宗教体験は論理的なものではない。宗教体験は心的な内部で生起するから、客体として指し示しうる論理に置き換えられないからである。言い換えると、言語化や概念化、あるいは数値化、数式化もできない。宗教体験を感受することは直接的でありえても、直接的伝達をアウトプットすることは宗教体験においては困難である。それゆえ、宗教においてその体験を重視すれば、エクリチュールとしての聖典にのみ依拠することの限界が露呈してくる。なぜなら、エクリチュールはたとえ宗教体験を語ることができたとしても、それ自体は体験への言語による媒体でしかないからである。

2.間接的伝達(イメージ的表現)

そもそも感受は人の心の中にあるから、それを直接的に伝達することはできない。よって、感受されたものが何らかの表現によって示されようとした場合、それらは間接的に示されるしかない。(13)

間接的伝達においては、伝達される事柄はイメージや喩によって示されるのであり、直接的に語られるのではない。たとえば、あることがらの実体を示すイメージは再表現としてのイメージとなり、それ自体は実体ではない。そして、間接的伝達においても、非言語的に感受したものを言語化する伝達と、更に感受したものを非言語なまま伝達しようとする伝達の二つのあり方が考えられる。前者では概念化、言語化が行われる。これは体験的なものを言語化、概念化することであり、体験されたことがらの実体とは相違が起こる。そこでは、感受されたものがそのまま伝達されない。

感受されたものが非言語的である場合、それをそのまま非言語的イメージを保ちながら表現しようとすることは、絵画、音楽などの非言語的表現、イメージ表現などにおいて常々試みられている。また、「イメージ言語」(14)もその可能性を秘めている。これらにおいては表すべき事柄を媒介するイメージがそこに措定され、表現される事柄が間接的に示されることになる。

また、言語によって逆説的な表現を用いることによって、そこにあるものの実体を浮かび上がらせるという表現形式も存在する。たとえば、ソクラテスは弁証法的な問答法によって間接的に真理を浮かび上がらせた。彼は産婆術的に他者を真理へと気づかせるように試みるが、真理それ自体について彼はけっして語らない。言語は真理を直接的に語れないからである。それはあたかも産婆自身が子どもを産むのではないように、伝達者が真理を産むのではないからである。また、言語が真理ではないし、言語が真理を生み出すのでもない。それゆえ、ソクラテスは直接的に伝達できないものを逆説を介して言語によって示そうとした。なぜなら、概念化されない非言語的メージの世界へ言語によって到達することはできないが、それを示すことは逆説やイロニーを用いることによって可能となるからである。あるいは、それでも言語が語りえないものへ向かおうとすれば、非言語的な感受を言語によって生起させねばならない。ここでは多くを述べることを控えざるをえないが、歴史的にはフランスの詩人アンドレ・ブルトン(一八九六~一九六六)に代表された超現実主義の文学運動とその作品などはそれを試みたと言える。

以上で確認できるのは、宗教体験は間接的伝達によってのみ伝達されるということである。それゆえ、もし聖書から何かが感受されたとしても、聖書が感受の客体ではなく、聖書が表現している先のものを人は感受していかねばならない。このようなエクリチュールの限界はカトリックにおいては聖像、正教ではイコンなどが用いられることによって、言語的伝達に欠けているものが補填されているのではないと思われる。(15)

第5章 宗教の役割と心理療法

1. 聖書と「合一」思想

人が世界内にあり、体験的なことがらをいかに感受し、いかにそれを表出するか。たとえば、海の青を見てその美しさに包まれ、自分が海に吸い込まれて行くかのような感覚などを思い浮かべることができる。あるいは、無我夢中という言葉があるように、これは我を忘れている状態であり、ここでは客体と自己との間の境界は明確ではない。

宗教学において神と人との「合一」と呼ばれるものは、心理学的には心理変容という言葉に置き換えられよう。しかし、心理学が扱うのは人の心理的変化の内容ではあっても、合一する先にあるものの実在性ではない。なぜなら、心理学は神の存在が問題なのではなく、神の存在について考える人間の心的現象が問題だからである。このように視点は異なるが、そこに人間の癒しを追求しているという点では十分に重なる部分がある。

心理学的には意識と無意識とが互いに交叉する場で心理変容が生起すると考えられる。それは、神秘主義において「合一」と呼ばれていることがらと通底していると考えられる。それらは理性的、論理的なものであるよりは感性におけるものであり、それを体験するのは基本的には個々人である。どうしてそのような事柄が起こるのかは、客観的に論証の対象とはなり得ない。たとえば、箱庭療法における曼陀羅表現が生起する時には箱庭制作者自身の内的な大きな変化、すなわち転回点と呼ばれる心の変容が生起していると考えられているが、論理的に整合的に内面において何が起こっているのかを論じることはどこまでも困難なことである。なぜなら、それらの表現は人の心の中の内的なことがらの現れであり、内的なものは客観化されえないからである。また、それらは論理的であるよりも、超論理的であり、介在しているのは心と身体であると言えよう。

そこに何が起きているかは、箱庭制作者自身も説明することが困難であろう。唐突に思われるかと思うが、詩人田村隆一の作品「幻を見る人」に次のようなフレーズがある。「空から小鳥が落ちてくる/ 誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために/ 野はある/・・・・/空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか落ちてこない/ ・・・・/どうしてそうなのかわたしには分からない/ ただどうしてそうなのかをわたしは感じる」。(16)

まさに、そこにあることがらをただ感受するしかない。現象はその観察者であるわれわれが、意味を付与する前に現象として生起している。同じく、心理変容は人が意味を付与するまでもなくそこに生起する。宗教体験はあらかじめそれをわれわれが造り出したり、意味付与や解釈をしたりするのではなく、彼方から来るのである。人はただそれを感受するしかない。それゆえ、ユング(C.GJung)は次のように言う。「神の像は発明されたものではない。みずから進んで人間たちの中から歩み出てくる一体験である」。(17)

新約聖書の中にも、心理変容的な事柄、あるいは合一が述べられている箇所がかなり存在する。たとえば、ヨハネ福音書一四・二〇「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなた方に分かる」。ヨハネ福音書にはこれと類似の表現が他にも存在する。先に共観福音書が存在したにもかかわらず、ヨハネ福音書はあえて史的イエスを無視して、神秘主義的な合一思想を加味して書かれた福音書であると言えよう。ヨハネ福音書は合一という神秘主義的な宗教性を強調するが、史的イエスには距離を置いていると思われる。