プロテスタント的瞑想の試み:その方法と理論
でも、何か変?、私が思っていたような祈祷会ではないし、以前、有志祈祷会に出席していた人はいないし、呼吸法、瞑想、数ヶ月前に少しだけ気功を経験した事があるので、呼吸法はスムーズに入れたのですが、瞑想なんてやった事がないし、だいいち瞑想はキリスト教と無関係なのではとの思いがあり、出席するのをやめようと思ったのですが、これも神様の計画の中にあるのだから、しばらく様子を見ようと出席することにしました。
でも、不思議です。これほどまでに神様の臨在を感じるとは思いませんでした。私の瞑想は正しくないかもしれません。色々な思いが頭の中をグルグルする時もありますが、眼を閉じて拝読される聖書の言葉を静かに聴くとき、今まで何度も読み聞いたはずの聖書の箇所なのに、驚きの発見があります。イエス様の歩まれた道、イエス様のなされた奇跡、イエス様の語られた言葉をとても近くに感じるようになり、この祈祷会は唯一イエス様とお会いする所となりました。
今までの私の祈りは叫びでした。でも、その叫びが静かな祈りへと変わって行きました。眼を閉じて瞼の中に十字架をイメージする、・・・最近は眼を閉じるとすぐにイメージできるようになりました。(特に暗い場所がいいのですが)私の見る十字架は色々な形をしています。大きかったり、小さかったり、斜めだったり、あちこち動いたりと。でも、このような愚かな私の内にもイエス様は深く深く臨在しておられるのだと思うと、心震える思いです。」
第3章 瞑想の理論(感受と非言語の世界)
本章では無意識とイメージの関係について考察する。そして、人間の癒しが心理学的にはどのように位置づけられ、それが宗教とどのように関わっているかを考察する。
1. 瞑想と無意識について
宗教における瞑想、黙想、禅、止観などいずれを取るにしても、それは人の心に起こることがらである。そこに一人の人がいて感受する世界として瞑想、黙想等が存在する。それは思想として説明されるようなことではないし、好むと好まざるとに関わらず、人は皆このような方法によって心を静めることができる。どうしてそうなのかは、人間の身体の構造がほぼ等しく同じであるように、心の構造もほぼ同じであると考えるしかないであろう。
ユングは意識を意識と無意識とに分けて考える。そして、更に無意識を個人的無意識と集合無意識に分ける。ユングにおける人間の意識は意識下に存在する自我と無意識の自己(セルフ)に分けられる。どこまでも意識と切断されている無意識は、意識されていない限り無意識なのであるが、それが外界の事物、すなわち象徴に投影されることで意識化されると考える。すなわち無意識がそのまま直接、言語に意識化されるのではなく、象徴を使って間接的に表現されてくるのである。このようなものはオットー(H・Otto)が「聖なるもの」の中でヌミノーゼと呼んだものとも近いと思われる。これは体験的なものであり、ヌミノーゼは言語化して表現することができないが、感受されうるのである。
このような意識のレベルがなぜ起こるのかは、ユング心理学における意識の構造を考えると明らかである。
上記の二つの図はいずれも意識を図式化したものである。但し、図bでは自己(Self)の下の普遍的無意識は省略されている。通常われわれが意識と呼んでいる外的な刺激に対して反応するのは自我(Ego)領域である。図bは「夢などのようにたとえ無意識に捕らえられる無意識の一部分があるとしても、それが捕らえられた瞬間にもう無意識ではなくて意識化されるのだから、無意識そのもの(per se)は永遠に我々には隠された存在としてある」(12)。それゆえ、無意識の存在は仮説であるが、それが存在するとすれば、無意識は非概念的であり、非言語的と言える。また、非論理的、非理性的でもある。
たとえば、概念化することができない経験というようなものは特殊なものではない。音楽を聴いて安らぐという感覚などは概念化できないものの典型的な例である。そのようなものは他にも存在する。遊びやスポーツの時の集中と楽しさなども概念化の対象ではない。そして、宗教もまたこのような概念化できないものを本来持ち合わせている。そのことは既に述べたように、宗教の最初期はエクリチュールとしての聖典を持ち合わせず、体験的なものの感受が中心であったと想像されるからである。
2. 感受
理性的な判断が可能であるもののを理解、表現することと、理性的な判断が停止せざるをえないものを感じることは根本的に異なる。感受とは感性によって非言語的に受け止めることであり、たとえば聖典が成立する前の実体験的な宗教体験を感じることもこれに属す。
ところで、キェルケゴールは実存の三段階として、人生の美的段階と倫理的段階、そして宗教的段階という区別をしている。これらは段階というよりは、局面と言い換えた方が適切かもしれない。神に対する距離という意味では段階であっても、これらは順序としての段階ではないからである。だが、いずれにせよ、彼は倫理的段階と宗教的段階とを厳密に区別し、倫理的段階は理性的判断の段階であるが、宗教的段階は理性を超えたものと考えている。すると、宗教的段階での宗教体験は感受の世界の中で生起すると言えよう。キェルケゴールにおいても感受するしかない世界が意識されていると言えよう。
また、ヴィトゲンシュタインも同様に「論理哲学論考」において、「語りえないものには沈黙しなければならない」と述べ、論理が及ばない領域については、哲学や科学が沈黙せねばならないことを指摘する。これもキェルケゴールと同じく、理性的なものの限界を論じていると解されよう。
では、宗教において、理性が及ばないものとは何であるのか。それは概念性が排除されたものであり、言語や理性で判断する対象ではなく、ただ感受されるものと言わねばならない。そのようなものは、きわめて体験的なものとならざるを得ない。それらは純粋に個別的なことがらとして人に生起するのであり、それらを概念化して説明するとすれば、その試みがなされた瞬間に体験的なものではなくなるのである。荘子は外篇『天地』において「冥冥に視、無声に聴く」と言う。すなわち、眼に見えないものを見、耳に聞こえないものを聴くという意味である。そのように理性の対象でもなければ、概念化の対象でもないものの存在を感じ、受け止めることを感受と呼びたい。そして、それらは先に述べた無意識へと通底している。
宗教体験について言えば、それはもともと論理的なものとして体験されていないから、直接的な伝達の対象ともなりえない。それらはイメージ的な表現によって伝達されるか、あるいは被伝達者を伝達者自身が感受した領域へ連れて行くことによって体験を共有させることによらなければ伝達は起こらない。それゆえ、宗教体験は非概念的な無意識との接点で体験的なものとして非理性的に感受される。それらは身体的なものとして感受されるが、言語化できないものである。
第4章 宗教的瞑想と伝達表現
1.直接的伝達(論理的表現)
直接的な感受は宗教体験においては重視されねばならない。それは外部から人に入ってくるインプットとしての体験である。だが、その体験を誰かに伝える場合にはアウトプットとしての直接的伝達がどこまで可能だろうか。認識したものをアウトプットする際に指示語によって、「これ、それ、あれ」と示すことが可能な場合には体験の客体を指し示して認識を概ね共有することが可能となる。たとえば、「あれは花である」と述べる場合には、「あれ」が実体を指し示すのであり、そこでの「花」は「あれ」という指し示しによって特定されたものとなる。このような伝達はもともと伝達者と被伝達者との間に「花」という実在が存在し、「花」が共通の認識客体であることによって伝達が成り立っている。これは論理的な事柄においては、常に滞りなく行われる。たとえば、数式間において代入するという計算方法は等しいものを入れ替える作業であるから、それが何であるかをお互いに同時に指し示している状態として成立している。