プロテスタント的瞑想の試み:その方法と理論
第2章 宗教の役割(非言語への回帰、身体性への課題)
1. 祈祷会プログラムの紹介
私の牧会する日本キリスト教団伊丹教会において、六年以上にわたって行ってきた祈祷会の内容をご報告したい。これは1章で述べた準拠枠、すなわち、言語的な認識と教義を超えるための試みとして考案したものである。
当初は呼吸法と聖書朗読が中心であったが、後に十字架を見るという技法を加えた。以下は現在の内容である。七,八名で行い、所要時間は約四十五分程度である。
讃美歌
招 詞
「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)」
黙 祷
聖書朗読(1回目)
「静かに御自分の身体の感じを確かめましょう。
自然なリラックスが出来ているでしょうか。
眉と眉の間に力が入っていたら、ゆるめてみましょう。
頬やあごの力も緩めます。
口元も楽になっているでしょうか。
背中はどんなふうに背もたれに接しているでしょうか。
身体はどのように椅子を感じていますか。
足下は靴を介して床をどのように触れているのでしょうか。
身体の感じを確かめながら、身体の一つ一つの部位の力を抜いてみましょう。
より自然な感じを受け入れて行きましょう。」(5)
「では、十字架を眺めましょう。(6)
意識を十字架に向けます。
じっと見ながら心を落ち着けます。
そのまま目を閉じましょう。
瞼の内側に十字架の残像が見えるでしょうか。
瞼の内側の十字架に意識を向けます。
心の目を通して十字架を眺めます。
(瞼の内側に残像がない方は、もう一度目を開いて、じっと十字架を見て、また瞼を閉じましょう。そして、心の目で十字架を見ます。)
十字架が心の目を通して見えます。
一人一人の心が、十字架を通して
主と一つに重なっていきます。
十字架を見れば見るほど、心が落ち着いて行きます。
キリストにとらえられていきます。」
「パウロは次のように言いました。
「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。(1コリント6:17)」
パウロが語ったように、主と一つとなることを喜びましょう。
キリストは自ら私たちのもとへと来て下さり、私たちの内に入って下さったのです。」
「瞼の内側には十字架をしっかりと捕らえながら、いつもの呼吸を続けながら、瞑想を続けます。」
約3~5分間 瞑想
(ここでは以下の呼吸法を行う。これについては事前に各自が行えるように準備しておく。)
①恵みを胸一杯に受け取るつもりで、(鼻から)息をゆっくりと胸一杯吸います。
②吸いきったら、いったん止めます。
③ゆっくり、まるで身体と心の疲れを外へ追いやるように、ゆっくり口から息を吐きます。ため息をつくかのように、力を抜くように吐き出します。(自分にとってもっとも心地よいと思える速度で吐く。)
④吐ききったら、「神様」と呼びかけましょう。
あるいは「イエス様」と呼んでもかまいません。自分にとってしっくりする呼びかけ
を行います。〕
(この呼吸を何回もくり返す。)
「静かに平安を感じましょう。
守られていることを感謝します。
心を神様へ向けましょう。」
「では、先ほどの聖書の箇所をもう一度お読みします。
ただ心静かに聞いてください。
どんな光景が目に浮かんでくるのか。
考えるのではなく感じ取りましょう。
そこには誰がいるのか、
また、あなたがどこにいるのか感じてみましょう。
イエスの側にいることを想像しましょう。
静かにお聞き下さい。
頭で考えるのではなく、ただ感じ取るつもりで聴きましょう。」
聖書拝読(2回目:同じ箇所を読み上げる)
「聖書の言葉を思い起こしならが、更に瞑想の時を続けます。」
約3~5分間 黙想
「それではいったん目を開きます。
そして、聖書を目で追いましょう。」
(しばらく各自で黙読する)
「どなたでも結構です。心に止まっている聖句を教えて下さい。
考えるのではなく、心に止まった箇所を教えて下さい。」
(各自、説明を加えずに聖句の箇所とその内容を読み上げる)
「では、また十字架を見つめて、心に十字架をしっかりと留めたら、目を閉じましょう。
力を更に抜いて、十字架を瞼の内側に心の目で見ます。そして、静かに先ほどの呼吸をします。
神様にもっと近づきましょう。」
「十字架を見失ったら、目を開いて、十字架を見つめ、再度、瞼の内側にとらえましょう」
「もう一度聖書を拝読します。静かに深呼吸をしながら、お聞き下さい。静かにお聞き下さい。」
(先の呼吸法を各自で行う)
聖書拝読(3回目:同じ箇所を読み上げる)
「ゆったりと呼吸を整えながら、しばらく瞑想を続けましょう。」
(先の呼吸法を各自で行う。3~5分間瞑想)
イエスは次のように言われました。
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。(ヨハネ福音書14:20)」
それではどなたからでも構いません。言葉で祈りましょう。
(各自の言葉を声に出して祈祷)
「続けて主の祈りを祈りましょう。」
主の祈り
(終了)
2. スクリプトの解説
前節の祈祷会のスクリプトで特に留意している点は、聖書の朗読を行っても釈義は行わないという点である。また解説を加える場合はせいぜい何故この箇所を選ぶかという程度の説明にとどめている。聖書を読解的に理解するのではなく、体得的に受け止めることによって、先に述べた聖書のエクリチュール性を超えた体験的なものを感受できると考えるからである。また、読み上げるにはヨハネ福音書がイメージを描く上で馴染みやすいようである。
次に、深呼吸を行う理由は、ヨガ、禅などに呼吸法が存在するように、深い静かな呼吸によって精神と肉体の安定が保たれるからである。このようなリラックスと集中は宗教的にも深い洞察をもたらすと思われる。
十字架を見てその残像を瞼の内側に捕らえる手法は、真言宗の阿字観(7)や自律訓練法(8)の黙想練習から学んだものである。そこで得られる安らぎや集中力が神とつながるための一つの経路となると考える。自律訓練法(9)は一九三二年にドイツの精神科医シュルツによって体系化されたものである。これはリラクゼーションに誘導された人が腕や脚に重感や温感をしばしば報告するということから、そのような感覚を自己暗示により生じさせることで心と身体の弛緩状態をつくる目的で考案された。自分自身でいつでも日常的に行えるセルフコントロール法として知られている。そして、自律訓練法の応用編である黙想練習では「私は誰なのか」「私は何者なのか」「私にとって一番大切なものはなにか」「私はどこへ行こうとしているのか」など、存在への気づきを問う。純然たる医療系リラクゼーション技法である自律訓練法だが、どこか宗教的な瞑想に接近するのは偶然ではない。心と身体は区別できないからである。
伊丹教会では週一回このプログラムを夕刻に行っていたが、最近、日中午後の聖書研究会においてもショート・バージョンとして、聖書解説を三十分ほど行った後、呼吸を使うことと十字架を見ること以外の部分を簡略した瞑想を行っている。
教会でこのようなプログラムを導入した当初は、現住陪餐会員約百七十名の中には戸惑いの声もあった。「瞑想などやりたくない」とか、「なぜ呼吸するのかわからない」などである。もっとも、これらはまだ参加していない段階の人の反応に過ぎなかった。現在では毎週の聖日礼拝後に約二十分程度の祈祷会も行っている。自由参加として二〇一三年十一月に開始して六ヶ月間に二十四回実施し、礼拝の平均出席者数約七十五名中、聖日祈祷会への出席者数は平均三〇名を維持している。
3. 参加者の反応
週一回の夕刻の祈祷会は五名から十名以内で行って来たが、これに三年以上継続して出席している六十代の女性は次のように述べている。
「礼拝だけにしか出席しない私は、教会の中で祈れる場所や場面があったらと常に思っていました。十数年前に行われていた有志祈祷会は私たちが伊丹教会に導かれた頃に行われていました。聖書を読み、自由に語り、みんなで祈り合う。いつも五、六名が集まり心和む時間でした。それもいつしかなくなり私たちは礼拝信者でしたが、この祈祷会が始まった時、私は心弾む思いで出席しました。