プロテスタント的瞑想の試み:その方法と理論

堀 剛

(1/6)

はじめに

本稿はプロテスタント教会において実験的に8年間実施した瞑想についての報告とその理論を考えることを目的とする。宗教の根元的なものとして、瞑想が行われるべきだと考えられる。その根拠を全体として論じたい。

第一章において、宗教は本来、体験的、非言語的なものを出発点としたと考えられ、そこから体験的なものを取り戻す必要性を論じる。

第二章では、実施している瞑想のプログラムを紹介し、参加者の声を報告する。

第三章においては人間の意識の構造と瞑想との関係を論じ、更に言語を超えたものとしての宗教体験は感受されることを考察する。

第四章では、宗教体験を引き起こすことがらを人は直接的に論理的表現では伝達できないことを確認し、更に宗教体験の伝達は間接的表現としてのイメージ的表現によって伝達されることを論じる。これらを確認することによって、宗教のエクリチュールとしての聖典や教義の機能の限界を考える。

第五章において、聖書の中にある合一思想を確認する。更に、合一とは心理変容であり、それは人間における癒しの時に生起すると考えられる。

そして、結びにおいて本稿の目的を再確認する。以上のような試みを通して、瞑想が必要である理論的根拠を更に構築して行きたいと考える。

第1章 宗教の非言語的な世界

既存のいかなる宗教においても、教義、信条、聖典はほとんどの場合、言語を媒体としてその意味が語られ開示される。話し言葉(パロール)であろうと、あるいは書き言葉(エクリチュール)であろうとも、教義、信条、聖典は言語という意味世界に依拠している。しかしながら、そのような既存の宗教においても、言語的な教義や信条、聖典等が未成立な時代があったはずである。そこではエクリチュールによらない体験的な世界があり、身体的なものが先行していた段階あるいは時代があったに違いない。それゆえ、体験的なものが根幹にあって宗教は始まり、発展すると言えよう。少なくともキリスト教や仏教はそのような発展をしてきたと思われる。

だが、宗教の根幹にあったはずの体験的なものは、宗教においては次第に遠ざかる可能性がある。その理由は、教祖やその直弟子の死去によって体験的なものを保持し伝えることが困難となるからである。そして、宗教はエクリチュールである教典を生み出し、何よりもそれは重視されて行くことになる。

日本のプロテスタント・キリスト教において、宗教体験をどのように考えるかという点では様々な立場が存在すると言えよう。しかし、一般には体験的なものよりも教義や信条が重視されていると言っても良いだろう。また、聖書の読解が何よりも重視されている。これは十六世紀以降の宗教改革がもたらした伝統でもある。礼拝における中心は聖書読解を基軸とする説教となり、宗教体験を強調することは一部の例外を除けば、あたかも片隅に追いやられた感がある。

また、宗教改革以後、非常におおまかな言い方ではあるが、プロテスタンティズムは科学と歩を共にすることとなった。(もちろんこれもクエーカーやアーミッシュなどの例外を除いてのことである。)そして、思弁的な神学の根底には19世紀的な理性が介在し、発展することとなった。ヘーゲル哲学の右派、左派への分裂の歴史の流れの中でプロテスタント神学は概して思弁的にはなったが、体験的なものへ眼を向けることは少なくかったと思われる。

少し考えてみると明らかであるが、聖典や福音書テキストというものは、それらがエクリチュールとなるまでに一定のプロセスを経て成立しているのである。そこにはイエスの事実があり、同時代の目撃者がいて、イエスについて知ったことを言語化して語り継ぐプロセスがあった。やがて、その内容は断片的エクリチュールとして記述された。更に、編集、加筆等の加工を経て各福音書が成立したのである。このようなプロセスを考えるだけでも、イエスの事実というものがエクリチュール化のプロセスを経て現代のわれわれに届いていることがわかる。逆に言えば、イエスの事実は加工されて、われわれに届いているのである。

ところで、今ここで起こる実証的な事実性を重視する科学においてさえ、純然たる事実とは何かという議論が存在するようである。村上陽一郎によれば、「「事実」は「事実」であって動かしがたい。科学理論の妥当性は、言うまでもなく「事実」の世界との照合によって一意的に確保される。「事実」が承認する理論は「真」であり、「事実」が否認する理論は「真」ではない。理論体系の真偽は、「事実」が定める。」のである(1)。しかし、「事実」と呼ばれるものが理論と照合されるためには、ただ定規をあてるような単純なものではないことが分かってきたという。事実を見るわれわれの眼そのものが、既にある一定の尺度を保持し、その尺度で観察しているのである。そのことを村上は次のように言う。「「事実」が「事実」であるためには、「事実」たらしめる準拠枠が必要と言えないだろうか。それなくして、「事実」はあり得ないと言えないだろうか」。(2)

村上の言う「準拠枠」とは、本稿の議論においてはプロテスタント信仰と言い換えることもできよう。われわれはイエスの出来事ではなく、福音書を準拠枠としての信仰的視点から読んでいるのである。そして、教義や信条、聖書の様々な文献という準拠枠が更に加えられている。それらエクリチュールである準拠枠は意図されたかどうかは別として、人間によって作られたものであり、事実という客観的なものを測る眼には既に人間の価値観が介在しているのである。それゆえ、エクリチュールである教義、信条、聖典等はイエスの事実そのものではないと言わねばならない。そこには様々な人々がイエスのことがらをそれぞれの眼で見て、それぞれの仕方で表わしているのである。すなわち事実が加工されているのである。

福音書の読解において、人はイエスの事実性をあたかも読解によって知りうるかのように考えがちである。しかし、ただ聖書に依拠することがイエスに帰るということにはならない。エクリチュールという準拠枠を選択したということに過ぎない。

ここでエクリチュールを準拠枠とすることがいかに心許ないかを述べるために、もう一つ引用を許されたい。プラトンは『パイドロス』において登場人物ソクラテスにこんなことを語らせている。

「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く、そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話かけ、そうでない人々には黙っているということができない。」

プラトンは書きものとされた言葉、すなわちエクリチュールが転々とめぐり歩き読み手のそれぞれの準拠枠に再度さらされて行くことを指摘している。書き言葉は書かれた意味とは異なる視点で読まれたりする。それは「準拠枠」の中で読解されることとなる。言葉は事実の像を表すようでありながら、ヴィトゲンシュタインが後期には像理論を放棄したように、実際には事実と等価、等質なものとして存在するわけではない。

村上は科学における事実性について論じる中で次の言葉を紹介する。

「フランスの、科学的犯罪捜査法を教える学校は、教室に次のスローガンを掲げているという。「眼は、それが探し求めているもの以外は見ることができない。探し求めているものは、もともと心の中にあったものでしかない。」(4)

だとすれば、われわれは宗教としてのキリスト教においても、言語的なものに大きく依拠していることを認めねばなるまい。そして、そもそも教義や信条、聖典等を生み出した根源へと回帰するべきである。

そこでもし、われわれの「準拠枠」を疑うとすれば、どこまで行けば準拠枠のない事実へたどり着くのか。あるいは、エクリチュールではない準拠枠は可能かと問わねばならない。また、われわれの宗教はエクリチュール的な準拠枠を超えたものに至ることが可能なのかと問わねばならない。

くり返すが、宗教が宗教として形成される最初期には、教義、信条、聖典等が存在しない世界が先立って存在したはずである。はっきりしているのは、それらは非言語的であり、体験的であるということである。そして、体験は身体をともなう。また、身体のない体験は存在しないであろう。