八木重吉の詩に於ける死の美化について (2/5)

堀 剛

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1925年(大正14年)八木重吉処女詩集『秋の瞳』と1928年の『貧しき信徒』の二冊のみが八木自身によって発表されたものであり、その後1942年(昭和17年)山雅房版『八木重吉詩集』が発行されているが、それは彼の死後のものである。それら以外には詩稿として八木自身が約五十篇ずつくらいの作品を自身のノートとしてまとめていたものがあるが、ほとんど未発表である。

詩集『貧しき信徒』が発行されたのは、1928年(昭和3年)2月20日であり、八木の死去から四カ月後にあたる。特に注目されているものを『貧しき信徒』より抜粋する。


  風が鳴る


とうもろこしに風が鳴る

死ねよと 鳴る

死ねよとなる

死んでゆこうとおもう

 

およそ詩というものは読者の共感をして初めて響きを獲得しうるものである。同時に、詩は読者を未体験な世界の中に引き入れて、新しい発見を与えねばならない。その意味で、八木の詩はあまりにも安易に「死」を発語する。「死」が何であるのかという八木自身の前提を読者に期待しているのか、「死」というものが何であるのかを、この詩自体は風という過ぎ去るもののモチーフに重ねて語ろうとする。

関谷祐規による『貧しき信徒』出版直後の書評(田中清光、吉野とみ子編『八木重吉・未発表遺稿と回想』p.119、麥書房、1971)では、この詩について次のように述べられている。

「これは通リーペんの宿命感や心細さ、安価なセンチメントが書かせる詩ではない。ここにうたはれている「死」こそは実に輝かしい生命の躍動だ。この詩には音響からくる美しさとととのひがある。とうもろこしの葉は「シネシネ」と鳴るのだ。秋風のなかに「シネシネ」と野末で鳴っているのだ。だからここにたたずむ良寛は「死んでゆこう」と思うのだ。まことに素朴の極致だ。まことに単純化された詩の力だ。これは永劫の暗示だ。何げなくはうり出されたこの僅か四行の詩に幾百千の言葉をつらねてしても表はし切れぬ涙がある。人生がある。私は悠久たる世の寂寞を思うのである。虚無はあらゆる詩人が吸うよき煙草ではなかろうか。私はここに悠々としてその煙草をふかして秋に居る八木重吉の姿を思ひうかべるのである。」

仮に関谷の言うように「虚無があらゆる詩人が吸うよき煙草」なるものだとしても、それなら、果たして死はそれほど美化されるべきものであるのか。仮に、八木のこの詩までも信仰詩というジャンルで読まれるとすれば、キリスト教とは、かくも死を美化する宗教であったのか。関谷の書評は次のようにも言う。「君には家族への愛の詩が多く、すべて真剣な心情の溢れたものである。それとクリスチャンとしての深刻な信仰の詩である」。(前掲書p.118)誉め言葉で埋められたこの書評は、いみじくも八木の精神の中の虚無としての死への願望と信仰という互いに本来反発し合うべきものが同居していることはかろうじて認めてはいる。ただ、八木の詩の問題性は、死への願望と信仰による抵抗という精神の葛藤について語るものが皆無であるという点を見落とすことは出来まい。ここに八木の作品に於ける問題点が存在するのではないだろうか。

同時代の中西悟堂は、『貧しき信徒』の読後感想を昭和3年8月号『野菊』に発表している。(田中清光編『八木重吉文学アルバム』p.79、筑摩書房、1984)ここでも同じ「風が鳴る」について論評され、次のように語られている。

「死を見つめて悩んだ八木さんの心の鼓動が感じられ涙ぐみ、且つ尊いものを覚えます」。

関茂著『八木重吉』(p66、新教出版社、1965)では、佐藤惣之助の『詩之家』に「風が鳴る」が発表されたことが記されている。八木は佐藤に「どうもわたくしは気が弱いので、ときどき死んでしまおうと思います。死んでもいいような気がするんです」などとつぶやいたことが述べられている。八木の心には、死を美化する意識と虚無意識が同居していたのかも知れない。そうだとすれば、八木は死への願望とキリスト教信仰との狭間でどのように葛藤していたのであろうか。八木にとって死とは何であったのか。次に、1925年(大正14年)に八木自身が発表した「ことば」という白選詩稿の中から、八木の言う「死」を問うてみよう。


すこし死ねば

すこしうつくしい

たくさん死ねば

せかいは

たくさんうつくしい

(『八木重吉全集』第2巻、p.104、筑摩書房、1982年発行、以下「全集」と表記する)


一人を殺せば殺人になり、多くを殺せば英雄となるとは、チャップリンの『独裁者』の中の皮肉な言葉である。人本は死ぬ主体が誰であるのかを述べることもせず、いきなり少し死ねば少し美しく、多く死ねば世界は多く美しいなどと述べる。こんな事を言えば、この詩は別に死者の数を言っているのではなく、死の深さのようなものを歌っているのであるという反論が出るかも知れない。だが、このような表現をしようとする者は、「死」の何について語るのかを読み手の判断に委ねきるのではなく、表現として事前にイメージの限定を提供して置かねばならない。この詩は八木が27才、亡くなる2年前のものである。「たくさん死ねば/せかいは/たくさんうつくしい」という言葉の中に、現代のオウム事件などとも共通した無責任な全体主義の臭いを嗅ぎとるのは筆者の邪推であろうか。この詩の書かれた1925年、治安維持法が施行された。いわゆる大正デモクラシー運動の終わりの頃である。あるいは遡ることが許されるなら、1904年八木が満6歳にして日露戦争が勃発、1910年には大逆事件、日韓併合。やがて16歳の1914年に第一次世界大戦が起こり、1918年シベリヤ出兵。1923年25歳にして関東大震災が起こり、「国民精神作興に関する詔書」が出される。八木はこのような時代を生きて来たのである。時代が更にファシズムの方へ流れ出そうとする頃である.死は美しいという八木の詩は異様な現実逃避とも見て取れる。死を賛美する八木の個人的思惑がいかにあれ、八本のいう「死」は美意識に直結し、それは前に述べたパウロ的キリスト教の現実逃避の側面に呼応すると言っても過言ではないだろう。

次に、1925年(大正14年)結核で亡くなる2年前の『詩稿』と『貧しい信徒』でも発表されている「柿の葉」という詩について述べよう。


柿の葉はうれしい

死んでもいいといったような

みずからをなみする

そのすがたのよろしさ


死への近親感を柿の葉に感じ取る意識は、すでに八木が死を受け入れようとするかのごとくである。他にも、八木はこうした詩句を多く残している。もし、八木の詩の中に思想性と呼べるようなものをあえて拾い出そうとするならば、こうした死が美しいという観念をあげることができよう。病を克服することを断念した人間には、美しいものとして死を迎えることこそが、魂の平安を誘うのか。そこへ、キリスト教のような信仰が同居する。人木特有の世界が作り出されている。

ところで、あえて確認する必要があると思うのだが、このような八本の死への美化は現代のホスピス運動などとは異質なものではないかと思われる。なぜなら、ホスピスでの人の在り方はいわば死を生と地続きなものとして受け入れようとするものではないのか。すなわち、死は生の延長でしかなく、だからこそ死を自然なものとして受け入れようとする。そこには死に反して、生が見劣りのする現実界という発想は存在しないと想像する。よって、ホスピスの発想には死が忌まわしいものでないことを意識すると共に、人間の生きるということの意義がどこまでも肯定されているのである。ところが、八木は死を美化するという反面で、生からの逃避を意識しているのではないだろうか。八本は、死が人間の生とは切断されたものとして考えているのではないだろうか。そうでなければ、これほど死への願望を肯定的に語ることは出来ないと思われるのだが。現実からの逃避としての「死」が美しく待っている情景、それが幾度も彼の作品の中に群がっている。

1925年(大正14年)6月7日発表の詩稿「ことば」(全集2巻)の中の「断章」という作品では、八木の「死」への考え方が更に明確に出されている。


もえなければ

かがやかない

かがやかなければ

あたりはうつくしくはない

わたしが死ななければ

せかいはうつくしくはない

  (全集第2巻、p.104)


自分の死で世界が美しくなるとは、なんと自己満足で傲慢な話だろう。恋愛の歌の中で世界はバラ色であると歌うことを、現実の世界の色はそうではないと誰も咎めはしないように、八木の詩のような表現も詩だから赦されるというものではあるまい。このような詩がキリスト教的であったり、信仰的であるというようなものであろうか。あるいは、人の心の慰めになるのであろうか。筆者は、この詩を不快なものとして受け止めざるを得ないのだが、そのような私見は離れても、ここに信仰詩人として数えられる詩人八木重吉の姿の断面があることを見逃すことは出来ないであろう。八木は世界と対峙する場を、既に死を受け入れるという場の中でしか見出せなくなっていたのである。彼は絶望して、なお絶望を自らの側へとたぐり寄せているのである。

もし、これがキリスト教信仰の詩であるとでも言うならば、これはかなり弁解を要するものであるかも知れない。死は生によって克服されるべきものとキリスト教では考える。死そのものにひたって、それを「美」と考えることなど、キリスト教には無いものではなかったか・・・。あるいは既に述べたように、郷原宏の言うように「詩とかなしみとキリスト教は、三位一体となって八木重吉を決定していく」という言い方で、矛盾するものを一体として読みとることしかできないものなのだろうか。同じく「ことば」からもう少し引用する。


死をおもひ

死をおもひて

こころはじめておどる

  (全集第2巻、p.108)

*


いってしまいたい

いってしまいたい

  (全集第2巻、p.111)

*


ないたとてだめだ、

いきどほったとてだめだ、

死よ 死よ

ほんとうにしづかなものは

死ばかりである

  (全集第2巻、p.114)


死についての言葉を多く含んだ「ことば」は、先述のように、1925年(大正14年)の発表である。1915年(大正4年)、17才の時、八木は日本メソジスト鎌倉教会のバイブルクラスヘ通っていた。そして、1919年(大正8年)3月2日、本郷東片町96番地、駒込基督会にて富永徳麿牧師より洗礼を受けた。この頃から、既に八木は内村鑑三のキリスト再臨信仰の影響を受け始めたとみられる。1925年、処女詩集『秋の瞳』を出版し、1927年には二十九歳の短い人生を閉じた。こうした信仰の日々にも、八本は「死」を美化する作品を書き続けたようである。今日、信仰の詩人として評価される八木のこのような一面に注意が向けられないのは、あまりにも迂闊なことではないのか。もし仮に、死を美化する作品は量的にはほんの一部であると言うのだとすれば、八木の信仰詩というのも、膨大な彼の作品の中の一部に過ぎないと言わねばならないだろう。