八木重吉の詩に於ける死の美化について (3/5)

堀 剛


草をむしれば

あたりが かるくなってくる

わたしが

草をむしっているだけになってくる

 

この八木の詩について、高村光太郎は次のように言う。「詩はここにあるのだ。どんな厖大な詩にしろ、新奇な詩にしろ、この一点をはづれたものはこけおどしにすぎない。」(高村光太郎の「八木重吉研究」は山雅房版『八木重吉詩集』1942年(昭和17年)7月20日発行の付録として添えられた小冊子である。及びこの文章は『八木重吉文学アルバム』p.115、昭和59年、筑摩書房発行に再収録されている。)「この一´点」とは何か、高村の言葉からは具体的に指示されていない。続けて高村は言う。

「頃日、一人の気位の非常に高い友人が来ていった。今の世上の詩と称するものは皆うす汚いといった。この友人は真に心の高い立派な人であるが若し八木重吉のような詩人をもうす汚いといふならばそれは、気位の高い人の病であるところの、自己以外を決して了解し得ぬ程高い成層圏にもう突入してしまったことを意味するであろう。」

心を飾らず言葉にしたものという意味では、確かに八木の詩の中には、素朴な美が読み取れる。だが、高村の褒め言葉を普遍化するわけには行かない。この詩の中で、八木が「あたりがかるくなってくる」と感じ取れるときには、草をむしる自己のみを見つめるときだと言うわけだ。ここでは、八木の実存意識は社会性から遊離するのは言うまでもない。病弱で孤独な八木の姿が想像される。自分の死を社会全体の死と対置できるとすれば、ほとんどそれは実存の中に於いてのみ意味をなす。八木が「わたしが草をむしっているだけ」という意識を他人がどうこう言うことでは無いのかも知れない。だが、作品としての完成度に於いては、作者である人木の意識が読者に反復あるいは再現されなければならない。それも無い。もっとも世界は常に自分の見る世界であると共に、構造の中に置かれた世界でもある。世界を問わずにいても、その思考の主体は世界という構造に取り込まれている存在でもある。それゆえ、作品という普遍化と共同性を備えるべき世界では、個人意識がどこまでも他者に意義あるものとして伝達されて来なければならないはずである。だが、八本はその伝達内容をここでも読者の読み方に委ねていると言える。

高村がこの論評を書いた山雅房版『八木重吉詩集』は、昭和17年の出版であり、限定五百部が発行された。八木の死から約十四年後に、あえて編まれたこの詩集の中にも、「死」を美しいものとして歌ったものが多く含まれている。編纂者は、以下の通りである。加藤武雄、草野心平、佐藤惣之助、三ツ村繁蔵、山本和夫、八木とみ子。筆者は特に山雅房版の編集内容に興味を持ちこれを入手した。この詩集は無名であった八木を詩人として再び世に紹介する大きな役割を担ったと言える。太平洋戦争の言論弾圧の渦中にあってこの詩集は発行された。内容は時流に抗うことなく、むしろ死への美化は当時の日本人の精神構造そのものであつたのか。五百部の発行で、現在では入手しにくいので、もし筆者と同じ様な興味を持たれる方のために、ここに編集内容を記すことにする。

これらは、『八木重吉全集』との照合によって、各作品内容にあたることが可能である。


「石塊と語る」(大正12年編)

「私は聴く」(大正12年編)

「白い哄笑」(大正12年編)

「巨いなる鐘」(大正12年編)

「不安なる外景」(大正12年編)

「感触は水に似る」(大正12年編)

「衿侍ある風景」(大正12年編)

「暗光」(大正12年編)

「庭上寂」(大正12年編)

「無題」(大正12年編)

「草は静けさ」(大正12年編)

「土をたたく」(大正12年4月編)

「痴寂なる手」(大正12年5月編)

「焼夷」(大正12年6月編)

「鞠とぶりきの獨楽」(大正13年6月18日編)

「純情を慕ひて」(大正13年11月4日編)

「幼き歩み」(大正13年11月14日編)

「寂蓼三味」(大正13年11月15-23日編)

「貧しきものの歌」(大正13年12月9日編)

「み名を呼ぶ」(大正14年3月編)

「桐の疎林」(大正14年4月19日編)

「赤つちの土手」(大正14年4月21日編)

「春のみづ」(大正14年4月29日編)

「赤いしどめ」(大正14年5月7日編)

「ことば」(大正14年6月7日編)

「松かぜ」(大正14年6月9日編)

「論理は溶ける」(大正14年6月12日編)

「美しき世界」(大正14年8月14日編)

「うたを歌わう」(大正14年8月26日編)

「ひびいてゆこう」(大工14年9月3日編)

「花をかついて歌をうたおう」(大正14年9月12日編)

「母の鐘」(大正14年9月17日編)

「木とものの歌」(大正14年9月21日編)

「よい日」(大正14年9月26日編)

「しずかな朝」(大正14年10月8日編)

「日をゆびさしたい」(大正14年10月18日編)

「赤い寝衣」(大正14年11月3日編)

「晩秋」(大正14年11月23日編)

「野火」(大正15年1月4日編)

「麗日」(大正15年1月12日編)

「鬼」(大正15年1月22日編)

「赤い花」(大正15年2月7日編)

「信仰詩篇」(大正15年2月27日編)


以上の詩の各題名はそれぞれ一篇の題名ではない。これらは短い無題の詩をグループ分けして付けられている題名である。この書の終わりには八木桃子、八木陽二による跛が付記されている。

山雅房版の中から、八木が死について書いたものを引用してみよう。


  秋のひとみ

死は おそろしく

死は なつかしげなる、

初恋の ひとの

乳房に 似るか、

  (「白い哄笑」より)

 

*


ぢりぢりと生くることをおもふて

ふと「死」をおもふ甘いこころ!

「生きる」すがたが

「死ぬる」すがたのなかへと、

すがすがしくひろがっていく、

  (「痴寂なる手」より)

 

*


宿直べやにねようとすれば

救世軍のらしいえんぜつがかすかにきこえてくる

あのひとたちだって

いつしんいちねんのそこにうたがひもあろう

みえも虚栄もあるにはあろうが

とにかくあのいっしんがあるのだなあ

さてこの宿直べやの

いやにむいみに四角なこと

形式と無かんげきそのもののようなへや

食ふためとはいへ

こんな生活をくりかえしてゆく

死んでやらうといふかんげきもうせた

生きようといふあざやかなねがひもない

あるものは

ひとすぢのぜつぼうとげんめつのこころだ

  (「貧しきものの歌」より)

 

*


やすらかな

死がまつている、

いらいらとするな、

いらいらとしても、

こころのそこはやすらかにあれ

  (「母の鐘」より)


*


死のうかとおもふ

そのかんがへが

ひょいとのくと

ぢつに

もったいないこころが

そこのとこに すわってた

  (「春のみづ」より)


*


あさがほ

あさがほを 見

死をおもひ

はかなきことをおもひ

  (「うたを歌おう」より)


*


  雨

雨のおとがきこえる

雨がふっていたのだ


あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう

雨があがるようにしづかに死んでゆこう

  (「母の鐘」より)


*


  ねがひ

血あり涙あるひとになるのだ

できなければ死のうとおもう

  (「しづかな朝」より)


*


  ねがひ

ものを欲しいこころからはなれよう

できるだけつかんでいる力をゆるめよう

みんな離せば死ぬるようなきがするが

むりにいごぢなきもちをはなれじ

いらないものからひとつづつはなしてゆこう

  (「しづかな朝」より)


*


  冬

葉は赤くなり

うつくしさに耐えず落ちてしまった

地はつめたくなり

霜をだして死ぬまいとしている

  (「野火」より)


*

 

  冬

空の裾にだけみえるうすい雲は

けぶりのようなものを吐いている

あれは少なくもわざとらしいところが無い

極あたりまえな風をしていながら

死ぬことなんか

なんとも思っていないその様子につよくなかれる

  (全集第2巻、p.104)


*


  基督

からだが悪いままに春になってしまった

だが基督についての疑はまったく消え

何か寄りつくと

すぐ手のうちの火をなげつけるような

するどい気持ちがある

  (「信仰詩篇」より)

 

「ことば」、「美しき世界」の中の「草をむしる」等については、先に筆者が述べた通りである。更に、死への願望がテーマとなったものがいくつか存在する。そのような作品はけっして八木の作品群の中の例外では無いのである。