八木重吉の詩に於ける死の美化について(1/5)

堀 剛 Takeshi Hori

現代詩の技法や、詩についての理論への影響と言う意味では、いまさら八木重吉でもあるまい。およそ、現代詩を読み書きするものにとつて、もはや技法上では影響力のない詩人の一人であろう。しかし、八木重吉の詩集『秋の瞳』、『貧しき信徒』などは体裁を変えて出版が継続されている。あるいは全集にまでなって時代を越えて読まれて来た。その理由は、八木がキリスト教詩人として、文学界よりもキリスト教界で読まれていることに一因するだろう。信仰詩人として人木が読まれる場合は、彼の一部の秀作とされるもののみが注目され、この詩人を必要以上に美化する傾向が強いように思われる。だが、八木の膨大な作品の全部を読んでみると、自殺を肯定しているような詩が書かれてもいるし、時代の反映であるかもしれないにせよ、外国人への敵視が如実に露呈されているものもある。大抵の場合、八木重吉を論じる人々は、このような問題を含む作品には目もくれず、ひたすら人気作品にのみ目を配ろうとする。

そのような中で、1997年2月発行『日本詩人選14 八木重吉詩集』(思潮社)に収められた郷原宏の解説「八木重吉の世界」は、これまでの識者らの権威づけを離れたところで八木の論評を試みようとするものである。郷原は冒頭から、八木への評価について「・・・大詩人をとるか小詩人をとるかは、要するに個人的な好みの問題に帰着するほかはない」と述べ、いわば八本は小詩人に過ぎないと言い切りつつも、そのような八木へのこだわりを次のように言う。「・・私たちは詩を読むときに、そうした公的な基準によらず、もっと自分の資質に引きつけて読むことに自信をもっていいのである。 ・・・私は八木重吉の詩が好きである」(前掲書 p212)。郷原のどことなく弁解じみた論評の背後には、八木の作品へのいわゆる現代詩の世界からの評価が微妙に関連していることは間違いない。八本をあまりにも美化し、最高視するかのような論調が片方にあり、他方では、かつての時代の佳作ではあっても、八木の作品は技法上では忘れられざるをえないものの一つでしかないという現実が存在するからである。郷原はその意味で真摯に八木の作品に良心的な視線を向けながら、これまでの極端な美化を避けつつ、八木を読もうとする。しかし、郷原も言うように「八木重吉は作品以外の場所では一度も自分を語ろうとしなかった。・」(前掲書 p224)のである。だから、八木重吉論はどうしても好きなように詩人を論じて、如何様にでも賛美もできるのである。だが、なお郷原は慎重に八木を論じようとする。そして、八木重吉に特有な「かなしみ」のようなものの源泉を、彼の幼少の頃にも目を配りながらも、結局、明確に確かめることは出来ずに、次のように言う。「つまり、詩を書くことによって、それまで心のなかにあったものが「かなしみ」として昇華され、その「かなしみ」がまた新しい詩の源泉になった」。(前掲書 p.227)更に、「詩とかなしみとキリスト教は、三位一体となって八木重吉を決定していくのである」。ここで、郷原は三位一体というキリスト教用語こそ使用するものの、八木の詩とキリスト教というものの一体性を曖昧なテクニカル・タームで説明しなければならないのである。すなわち、八木の詩には少なくとも多面性を認めねばならないし、それらは時には信仰というよりは、あまりにも人間的な嘆きの方に接近することを郷原は読みとっている。郷原の論評がそのような視野を持ち合わせているという意味では、これまでに書かれてきたどの論評とも異なっている。ところで、郷原宏のこのような論評を離れて、これまで八木がいかに過大な評価を受けてきたか、あるいはキリスト教詩人として扱われながら、八木の作品の一部のみが信仰詩としてクローズアップされて来たという事実が存在する。本稿では、そのことを作品に触れながら指摘したい。

たとえば、八木の詩には「死」という言葉がかなり多く使われている。「死」は八木にとってばかりか、誰にとっても大きなテーマである。それは美意識と感傷で表現され、死に関する八木の主張は虚無的にすら響いてくる。八木は病弱な人であったので、彼の詩のさびしさは、持病の結核や体調の悪さという特殊性と切り離しては考えられないものであろうが、そこでの八木の「死」についての見方は暗く、さびしい。八木が自分の詩の世界に埋没していく中で、八木個人が生と世界との関係をいかに捉えていたかも更に問われねばならない事柄である。彼の生と世界との隙間は詩の中で何度も唄われはする。だが、それはおよそ信仰詩の視点から「死」を論じているというよりは、あまりにも虚無的であると言えよう。あるいは、そこに存在する時代への無責任さをあえて信仰の世界によるものであるというならば、パウロ主義批判で展開されてきた現実逃避の問題性と通底するものがあると考えてしまうのは邪推であろうか。

パウロ主義批判は日本キリスト教団の場合、1970年の万国博覧会へのキリスト教館出展問題との絡みの中で、キリスト教批判として登場したものである。問題となったのは、パウロ書簡の記述の中で、ローマ書13章の教会と国家権力との関係であり、更に第1コリント書7章17節以下の奴隷制の容認、第一コリント11章2節以下の女性差別等が批判的に読まれた。特に、万国博覧会という行事は、戦後のアジアヘの経済侵略に日本が成功し、経済復興したことを象徴する国家行事であり、これにキリスト教が手放しで参加することは、軍国主義へ迎合した戦時下のキリスト教の歩みと同じ事を繰り返すことではないのかということが問題となった。パウロ主義はこのような現実の問題に対して、目をくれようとせず、ひたすら信仰という観念の世界への逃げ込みとして問題視された。

ところで、『戦時下抵抗の研究Ⅱ』(同志社大学人文科学研究所編p431みすず書房、1969)に収められている対談集にて篠田一人は次のようなことを述べている。「抵抗のこのような形態でいちばん問題になるのは、外に現れる行動がどうだったかということよりも、むしろ関係者の内面的意識の在り方ではないでしょうか。たとえば安藤肇の『あるキリスト者の戦争体験』から引用しますと、軍隊に入って准尉に「お前はキリスト教だが、天皇とキリストとどちらが偉いと思うか」と質問され、「天皇の方が偉いと思います」と答えたとき、その人は、「これで軍隊の生活も、どうやらトラブルなしにすごせそうだ」と考えた。つまりかれは、そのとき、こういう答え方をすることによって、何かを防衛したのだと思った。 ・・。彼は受難者として自己を意識しており、背教者だという意識は無かった。 ・・・」ここに、キリスト教が現実の問題からいくら切り崩しを受けても、保持すべきものを内面において保持しさえすれば、それで信仰は守れたものであるという観念の世界が巧く言い当てられていると思われる。それが日本でのキリスト教の資質であるとするならば、八木もまた同じ線上に存在すると言える。そうだとすれば、八木を批判する前に、信仰とは、八木のように内的世界へ埋没することを容認するものが、否応もなくついて回るものでしか無いのであろうか。魂の救いを求めることは、自ずと自己中心的な観念的なものとならざるを得ないのか。信仰は、常に社会性とは対極の位置に立たねばならないのだろうか。あるいは八木の生きた時代もまた同じくそのような観念的なものとしての信仰の保持が奨励された時代であったということなのだろうか。

八木は幸いにも、一見してそれとわかる戦争詩など書いてはいなかった。しかし、八木が没頭する観念の世界には巧妙な時代への責任放棄が潜んではいなかっただろうか。彼は1898年(明治31年)に生まれた。1918年(大正7年)には小石川福音教会のバイブルクラスに出席し、1919(大正8)年、本郷東片町町96番地駒込基督会にて受洗している。詩作は主に1921年より1927年(昭和2年)の死去に至るまで続けられた。この時代の背景の大きな事件と言えば、1910年の日韓併合があり、1923年には関東大震災、1925年には治安維持法が公布されている。このような政治状況下の中で、八木の詩の持つ響きはいかなるものであったのか、以下に作品を挙げて見て行きたい。