ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールにおける神及び伝達の理解の類似性 (5/6)

堀 剛

5. 結び

以上、本稿ではヴィトゲンシュタインの中のキェルケゴール的なものを抽出しながら、両者が人間の理性を超越したものへの沈黙を説くという共通性があることをかいま見てきた。 1章で扱ったキリスト教とは何かという視点では、両者が宗教としてのキリスト教が教義化された教条ではなく、人間と神との関係において極めて実存的に理解されているという共通性があった。更に、神の存在証明に関しては両者ともに証明自体の矛盾を指摘している。ここから、理性の限界が類推され、更に人間の言語の限界が浮き彫りにされてくる。(もっとも、ヴィトゲンシュタインにおいて、「言語」という語は彼の前期と後期とでは意味が異なるという側面が考慮されていなければならない。人間の行為と密接に共存する言語という意味では、後期の言語ゲームで展開されている言語であるので、ヴィトゲンシュタインの前期ではあくまでも哲学の言語という意味に限定されるであろう。そして、両者は人間を超越するものへと真理を純化し、共に真理の概念化を否定する。

次に2章で見たように、そのような概念化の否定は間接的伝達の積極的肯定となり、両者の哲学的特徴が形成されている。真理の直接的伝達は否定され、ヴイトゲンシュタインではその狭間を縫うように言語ゲームとしての言語、すなわち人間の身体性と不可分な言語の可能性が、彼の後期に展開されていったと考えられる。

本稿において、両者を比較した意義は単なる類似性の紹介ではなく、ここに思想と呼べるものが見いださねばならない共通の原則、あるいは思想の流儀のようなものが発見されるのではないかと言いたいというのが、執筆意図の出発点であった。語ることの限界は何ら事柄(あるいは世界)の無意味性を露呈するものではなく、逆に方向性が指し示されるということであり、人間が人間であるという限界と超越的存在者あるいは意義への憧憬を可能とするものであると考えられる。真理は両者にとって、人間を超越したところに存在するが、それらは人間に無縁なものとなるのではなく、情熱をともないつつ人間がそれに関わらねばならないものなのである。極めて根本的な真理とは何かという場から、現代哲学に対しても、その無神論的な側面を両者の哲学が示唆するものをして、神学的に批判できるのではないかと考えられる。今後の研究課題も含めて、この点について次に付記して結びとしたい。

(現代思想との関連から)

キェルケゴールによって間接的伝達という方法が紹介されて以後、それはプロテスタント神学にも影響を与えて来た。しかし、ソシュールとレヴイ・ストロースによる構造主義以降、現代哲学(現代思想)においては、言語は恣意的なものであることが指摘され、伝統的な言語中心思想や言霊思想にピリオドが打たれた。更に、価値の体系が、人間の世界内のものでしかなく、ソシュールの言葉で言えば、ラングの中にしか価値は存在しないことが証明された。

「初めに言葉があった」というヨハネ福音書の言葉は、あくまでもヨハネの神学であり、それがキリスト教のすべてで無いことは言うまでもない。しかし、構造主義はギリシヤ哲学以来の二元論的思考と形而上学を言語の恣意性によって解体しようとした。このような構造主義、そしてポスト構造主義の現代哲学の潮流の中で、今なおキリスト教の神学が対話的に自らの位置を明確にして行く作業が要求されていると思われる。構造主義との出会いにおいて、神学が認めねばならないことは多々あると思われる。明らかにヨーロツパ的二元論の崩壊とヨーロッパ的キリスト教の崩壊が予兆される。言語はものの名でもなく、恣意的なものに過ぎないとされるところから、言霊思想や形相という考え方が否定されてくる。

だが、構造主義の提起した事柄が、いったい人間の営みのどのような領域にまで及ぶものと考えるべきであるのか。人間以外の生物はほとんどが言葉なしに生きている。だが、身体的な営みの中にすべての生ける存在は身を置いている。すると、いったい構造主義が提起した真理の場(ラング)は、我々の身体領域にまで及ぶのであろうか。あるいはラングをとりのけたところには、我々は存在しないのか。あるいは、我々が思想を思考する、あるいは思惟することの限界を、構造主義は、言語が恣意的であるということから指し示したというだけに留めるべきなのだろうか。

ヴィトゲンシュタインが、『論理哲学論考』において、「示す」と「語る」という言葉を使い分け、思考の領域に境界線を引くのではなく、思想の表現に境界線を引くということを明確にしながら、語り得ないものには沈黙せねばならないと主張したように、構造主義が提起している事柄は、言語の領域(すなわちラングの領域)が境界を持つ領域であって、そのラングの境界線において、言語が恣意的であるということが示されたと見るべきなのか。あるいは、構造主義者によつて、ラングの領域を超えたところのものや超越的存在がありえないものであることが実証されたと見るべきなのであろうか。

構造主義的には、宗教は社会制度の中の一つのファンクションとして理解されるであろう。また、実存的に存在の根拠を見据えたとしても、実存は構造の中にしか存在できない宿命にあるとされ、言うまでもなく、宗教という行為の価値はラングの中で擬制されたものでしかないということになるだろう。すると、価値はラングにおいて擬制されているものでしかなく、宗教は超越性に対しては、ただ信じるという仕方でしか構造主義に反論できないということになる。

仮に構造主義的な考え方からすれば、実存がラング内の実存でしかないとしても、では、実存はその存在を言語によってのみ構築しているのではないと考えることができないだろうか。すなわち、ヴイトゲンシュタインとキェルケゴールによって、超越的なものの存在に対して、哲学の言語がその限界を指摘されたように、構造主義もまた哲学的な主張の限界を超越的なものに対して持つとは考えられないだろうか。だが、構造主義があまりにも実証主義的な方法論によっても補填された哲学であるために、容易にその限界を見せようとはしない。しかし、身体領域にまで、ラングが入り込んで来たわけではないのだ。我々は思考を捨てようとしても捨てることができないように、その一方で、身体性を捨てることもできない。そしてまた、思考を捨てまいとしても、身体性としての死を迎える存在であることが読みとられねばならないはずだ。ラングから切断されるものとしての死者となるという出来事は、身体的な終末であるが、これはラングがいささかも揺るがすことができないものであり、ラングとは次元を異にする出来事として到来する現実の中にある45)。そのことは、人間以外の動物がラングを実現することなく身体的な生を営んでいることからも了解できないだろうか。シマウマが群をなし、ライオンから逃れるように、身体的な営みがラングとは別の次元で存在しないだろうか。あるいはシマウマにとつてのラングが存在することが論じられ、ラングがどのように死を語ろうとも、それは死への価値をラングにおいて付加させる作業とはなりえても、やはり身体的な死は、その事実の前で生の閉塞を確認せねばならないはずだ。

身体的な出来事は、死以外にも多く存在する。飢えること、渇くこと、痛むこと、老いることなど。そして、親にとつても、子にとっても生まれることである。これらは実存から見ればラングの閉塞された部分であり、ラングから見れば実存に及ぶことの無い限界として現前してはいないだろうか。少なくともデカルトのように考えている私が此処にいて、キーボードに向かう私がいま此処に存在して思考している限り、これはラングによつて擬制されているものではなく、このような私という存在形態を私は私で選び取っているのだ。もし、そのような「私」すらもラングによって擬制されていると主張する立場があるとすれば、そのようなものを迷信じみた運命決定論と呼ばざるを得ない。身体論的な事柄の中に、構造主義が入り込めない領域が存在するのではないか。逆に、構造主義が身体的なものにまですべて及ぶという立場があるとしても、それを仮説としてしか今は容認できないと思う。

では、構造主義の指摘する言語の恣意性を踏まえて、神学の方法論を考察して行くならば、既にキェルケゴール、ヴィトゲンシュタインらによって指摘された哲学による表現の限界から、間接的伝達が今なお語り得ないものに対して厳然と要求されているし、語り得ないものを人間に想起させる超越性は身体性の内部で、言語を超えて現前する。その意味で、言語が恣意的であるという立場に仮に神学的に立つとしても、ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールがかいま見ようとした超越性に対しては、あらかじめ既に言語は沈黙しているという事実をもって受けとめることが出来るのではないだろうか。