ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールにおける神及び伝達の理解の類似性 (4/6)
4. 語ることの限界と事実性の問題
ヴィトゲンシュタインは、「意義を表明できるのは、ただ事実だけである(T3.412)」とし、事実のみが事柄の意義を表明すると考える。ここで、言語は何ら意義に関して表明することができず、哲学における表現の限界が見て取られる。ところで、「事実」とは、それを人間は身体的に世界との共有点として持つものである。そのようなものは表現という手段に至る以前に人間に現前するものである。だが、それを感受した者が他者に伝達するとなると、たちまち、それらは直接的に伝達できるものではなくなる。事実性が表現される場合には、語られるのではなく示されねばならないことになるし、事実性が直接的に共有されないことは言うまでもない。感受される状態と内容はそれぞれの人において分岐したものとなる。更にそれが伝達される時にも直接的伝達は不可能であるから、それは語られるのではなく、示される他ないのである(Cf. T4.1212) 42)。だが、事実性とは本来、語られたり、示されたりする以前のものとして現前しているものである。すると、これはいわば人間の身体性にも直接かかわるところで生起しているはずである。一つの言い方として言うならば、ここにヴイトゲンシュタインは語の用法の問題を後期に発展させる契機を持ったとは言えないだろうか。事実性は身体性に関わるだろうし、更に事実性を表明する仕方としての「示す」ということも、日常的な言語の使用においては、それは人間にとって一つの身体性における営みであるだろうし、その場所と時間の中で意味を織りなすものとなる。そして、「示す」という行為の客体には、現実の世界の事実性と身体性が複雑に関わるところで、その意味が付与されることになる。かくして、問題は語の用法の問題へと発展すると考えられる。前期から後期ヴィトゲンシュタインヘの連関が見て取れると思われる。
彼の次の言葉には「示す」と「語る」が用法の問題として暗示されている。「君が「神」という言葉を使う方法は、君の意図する方を示さない、一 だがむしろ、君が意図するものを示すのだ43) 」。
「「神が他の人に語るのを、君は聞く事ができない。ただ、君が神から聞く事ができる場合にのみ、君は聞く事ができるのだ。」一 これは一つの文法的所見である。」44)
前者では、「神」という言葉はその言葉の対象の内容を語らない。しかし、その使用方法を見ることによって、「神」をどのようなものとして発語者である「君」が意図しているかが示されると言う。そして、後者では、事実性として直接聞くことが出来る時にのみ、自分が聞くことができるのであり、神が他の人に語ることは、その人の他者としての「君」には直接的に伝達されないのである。神という語は用法の中でのみ意味を持っているのである。