ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールにおける神及び伝達の理解の類似性 (2/6)

堀 剛

2. ヴィトゲンシュタインの中のキェルケゴール

(a)キリスト教とは何か

ヴィトゲンシュタインは『文化と価値』の中で「もしキリスト教が真理であるならば、キリスト教について書かれたすべての哲学は誤りである」と述べている5)。一方、キェルケゴールは「哲学とキリスト教はけっして結合されなぃ6)」と述べ、「キリスト教は学説(doctrine)ではなく、実存に対する矛盾を現す実存的伝達なのである」(7)と言う。ここには、思弁的神学に対して警戒し、キリスト教を理性や概念によつて把握することができないものとして位置付けようとするキェルケゴールの意図があった。そのような動機で綴られたキェルケゴールの著作の言葉を焼き直すかのように、ヴイトゲンンユタインは様々な断片を残している。その事をまず確認することから出発しよう。

「キリスト教が語ることの一つは、教義はまったく何の役にも立たないということを言っているように私には思える。 …略・・知恵には情熱がない。しかし、信仰とはこれに対してキェルケゴールが情熱と呼んだものである。8)」一方、キェルケゴールは信仰について次のように言う。「近代哲学は概して、信仰とは内在的なものであり、また内在的なものであるのだという考え方へと我々を欺き入れたのである。そして、この事はまた他方では、蹟きの可能性を取り除き、キリスト教を一つの教義へと作り替え、神と人(God―Man)との同時性の状況を取り除いたという事実に関連している」9)。キェルケゴールが「教え」としてのキリスト教を問題としたのは、人が「教え」が示す通りであると思って、信じると、次にはこの「教え」を理解するとか把握するという段階が来るからである。ここに理性によって論理化された直接的な伝達がキリスト教信仰に入りこみ、本来の逆説としてのキリストの出来事への同時性、すなわち真の意味での信仰が損なわれることが警告されている。

更に、ヴイトゲンシュタインは言う。「宗教的信念とは、かかわるものに対するただ情熱的な委託であるに違いないという考えが、私を捕らえている。それゆえ、それは信念であっても、それは真の生き方であり、あるいは人生を決定するあり方なのである。」10)ヴイトゲンシュタインは、信仰がある種の生き方であることを力説する。同じく、キェルケゴールも信仰とは主体性をかけた生き方であることを生涯一貫して主張し、「キリスト教とは霊であり、霊とは内面性であり、内面性とは主体性であり、主体性とは本質的に情熱であり、そして、その極致には自己の永遠の至福への無限の個人的な情熱的関心が存在する」11)と考えた。キェルケゴールは、もしキリスト教から主体性と情熱を、そしてそこから来る無限の関心をそれぞれに抜き去ってしまうなら、そこには真のキリスト教的意義は存在しないと考えている。このことはキェルケゴールの哲学の全体を支配するものであり、キリスト教が知識ではなく主体的な生き方であり、人はいかにしてキリスト者となるかという彼の生涯のテーマにつながっている。これはきわめて個人的かつ実存的なものであるし、そこには普遍性(社会性)は存在しない。キェルケゴールにとって、「キリスト教は永遠の至福を単独者に与えようとする」12)ものであり、それゆえ、「主体性こそキリスト教が関与するものであり、主体性においてのみキリスト教の真理は存在するのであり、もし、それがまったく客観的に存在するとすれば、キリスト教は絶対に存在していないのである。」13)。これに呼応するかのように、ヴイトゲンシュタインもまた次のように語る。「キリスト教は教えではなく、人間に起こった、あるいは起こるであろう事についての理論でもなく、実際に人間の人生に場所を占める事柄の記述であると私は思う。」14)

では、そのようなキリスト教の真理はどのように確認できるのか。キェルケゴールは真理は客観的なものではなく、個別性であるとする。キリストの出来事が歴史的事実性として把握されるところから、キリスト教の絶対性が確認されるものではない。たとえば、客観性としての歴史的真理の探究については、最大限に正確な知識といえども、一種の近似値でしかなく、そして真理への近似値は、自己の救いの土台とするには不十分であるとキェルケゴールは考える。15)ヴィトゲンシュタインもまた「キリスト教は歴史上の真理に基づいているのではなぃ」16)とぃう対応する言葉を語る。これらの言葉を見るだけでも、ヴイトゲンシュタインのキェルケゴールに近い一面が分かる。しかも、ヴィトゲンシュタインは彼自身の思想表明のコンテクストの中で、キェルケゴールの言葉を使用しているのである。

(b)神の存在証明と真理について

キェルケゴールの哲学の目的は、いかにしてキリスト者となるかということであり、キリストとの同時性を提唱することにあった。そのため、彼はヘーゲル哲学を批判し、更に思弁的神学を攻撃した。特にヨハネス・クリマクスという仮名の著作『哲学的断片』17)においては、真理とは普遍的なものであるとするヘーグルの考え方や客観的な真理把握、概念化等に対して批判している。

ヘーグルでは真理が現存する際の真実の形態としては学問的体系をおいてほかにありえないと考えられている。18)だが他方、キェルケゴールは『哲学的断片』において「真理は学びとれるものであるのか」19)という問いから出発し、人間は自分が既に知っている真理を探し求めはしないし、自分の全く知らない、自分との契機すら存在しないものを探し求めることはあり得ないと言う。こうした人間は、人間を超えた存在(神)について何の関係も結び得ないものであり、「いかなる人間も自己自身が中心(the midpoint)である」と言う。20)この場合、人間は自己という中心に向かってのみ存在している。しかし、その状態の人間存在は非真理であり、非真理の中の人間に真理を想起させるためには、神という超越的立場の存在者から、その人間自身が非真理であり、しかも自身の咎のゆえに非真理となったことが自覚させられねばならないとする。よって、ヘーゲル的な学問体系は、真理とは無縁のものとなる21)。彼はそこで、ソクラテスの無知の知から、より進んだ世界へと入り込むことを要求する。そこには「瞬間」「新生」「新しい人」という概念が主張される。そして、人間が神と出会う瞬間は、まさに永遠的なものとの関係の釣り合いを欠いたところにこそ現れるのである22)。だが、人間はその時、出会っている超越者が現に神であることを証明しようと思いつくこともないし、たとえ証明しようとしても、それは無駄であると言う。なぜなら、「もし神が存在しないとすれば、その場合には、もちろん、それを証明することは不可能である。しかし、神が存在するとすれば、それを証明したいということは馬鹿げている」からである。というのは、「証明に着手するまさにその瞬間に、ーーそれが前提であるのだから前提は確実であることはあり得ないのに一ーそれを疑い得ないものとしてではなく、決定的なものとして前提にすることになるだろう23)」からである。よって、神の存在についての証明は、常にジレンマに陥る。ここから先へ理性が入りこみ、証明を考えたとしても、それは神の存在を証明していることにはならず、人間の目から見て神が何であるかを論述しているにすぎないのである。

以上のキェルケゴールによる神の存在証明に関する主張に極めて類似した見解が、ヴイトゲンシュタインによっても次のように語られる。「神の本質は神の存在を保証すると考えられる。ーーこの事が本当に意味するものはここで問題とされるものは何ものかの存在ではないということである。24)」更に、ヴイトゲシュタインは次のように言う。「神の存在の証明は、人が神が存在すると自らに確信できるようなものであるべきである。しかし、そのような証明を提供する信仰者がやりたいと望んでいることは、彼ら自身はそのような証明の結果として信じるようになることは決してないにもかかわらず、彼らの`信念'に知的な分析や基礎付けをするのだと私は思う」。25)

(C)言語の限界と倫理的なもの

ヴィトゲンシュタインは、キェルケゴールが言語の限界に向かって突進し、語り得ないものへの壁を乗り超えようとしたと言う。「我々が語りうることのすべては、ア・プリオリにただ無意味なものにしかならない。それにもかかわわず、我々は言語の限界に向かって突進するのである。[1]キェルケゴールもまたこの突進を見ていたし、しかも、まったく同様にそれを(逆説への突進として)表わすのである。この言語の限界への突進は倫理学である。26)」このように、倫理学が言語の限界の彼方のものを問題とし、言語の領域を超えたものであるとする考え方は、『論理哲学論考』の最終結論である「人は語り得ないものには沈黙せねばならない(T7)」27)とぃう言葉に直結するものである。沈黙は倫理、すなわち超越的なものに向けられているのである。ヴイトゲンシュタインは『論理哲学論考』では、「哲学は語り得るものを明確に暗示することによつて、語り得ないものを暗示するに至る(T4.115)」とし、「倫理は言語的に表現できないということは明らかである。倫理は超越的(T6.421)」なのであると述べている。

また、『文化と価値』では、「君は人を何か善である方へ導くことはできない。君はただ人々を、どこかある場所へ導くことができるだけである。善は事実の場の外部に存在する」28)と言う。何が善であるかということの判断者は人間ではなく、判断そのものは人間を超越しているのである。よって、ヴィトゲンシュタインは倫理を超越的なものと考え、それへの沈黙を説いた。倫理の目指すべき価値の所在は、人間が思考し、意識しうるものの限界を越えたところに存在することになる。「価値のある価値が存在するならば、それはすべての生起や、かくあり(So-Sein)の外になければならない(T6.41)」からである。更に定言的命令についても「そして私がそうしなければどうなるのか(T6.422)」と述べ、倫理が何によって述べられ、何に対するものであるかを問いかけている。ヴイトゲンシュタインにおいて、倫理法則は「語り得ないもの」へと向かおうとする人間の限界ヘの問いかけなのである。

一方、キェルケゴールにとっては、真理は背理的であり、人間の知を超えたものとして存在すると考えられる。真理が逆説的なものとして感受される瞬間においてこそ、キリスト者の生き方が可能であると考えられている。ここに、両者が理性を超えた領域を認め、理性と理性を超越するものとを厳密に区別している互いの共通性が出てくる。そして、このような超越的なものに関連して、両者に間接的伝達という伝達の方法上の類似性も出てくることになる。この事を次節で『おそれとおののき』を題材として考察してみたい。

(d)真理の概念化の否定と語り得ないもの

キェルケゴールにおいては、絶対的な神の啓示は、ただ逆説を通してのみ理解されうるものである。逆説とは、この場合、真理が伝達されるための一つのプロセスであるが、真理そのものは、けっして、人間の理性の枠内で概念化されることは不可能であり、同じく、神の啓示も概念化されないことにおいてのみ、啓示が啓示であるという本質を失わないのである。キェルケゴールは、真理は間接的伝達という方法によってのみ伝達されると考える。

『おそれとおののき』の中で、信仰とは、個である単独者が普遍性よりも高次の存在であるという逆説であると述べる29)。そして、信仰自体は普遍的なものへと媒介されることが出来ず、信仰は逆説であり、単独の個が単純に自らを他者に理解させることは出来ないのである30)。よって、真理は個別性の内にあり、それは常に普遍性に対立するものである。それゆえ、何かを人間が把握する場合、把握の対象を概念化することは、普遍化するということになり、真理を概念以下のところに置くことになる。そもそも、真理は概念化も、普遍化もできないのである。キェルケゴールにおいては、真理は人間の理性の中で、いわば直接的に認識されないことにおいてのみ真理なのである。このことは、根底においては人間自身の存在が罪によつてあらかじめ真理から疎外されていると考えることから派生している。

キェルケゴールには、ヘーグル哲学の体系や世界観を警戒することが、大きなテーマとなっていた。いかにして個を再発見するかが、普遍主義への反論を構築するものであった。『死に至る病』での絶望は罪であるという主張も、思弁的神学への反論なのである。絶望は個人的な精神の中に生起する一現象である。その意味では、神は個の精神と切り離して考察され得ないのであり、いかなる神学的体系の中にも概念化して措定され得ないのである。また、どんな人間もその精神のうちに罪を抱え込み、罪もまた体系化されないし、概念化されないのである。すなわち、「罪は思弁的に思考され得ない」のである31)。こうした罪にせよ、真理にせよ、人間の理性の領域では把握されず、また、概念化され得ない。このことは、前期ヴイトゲンシュタインが「倫理が言語的に表現できないというのは明らかである。倫理は超越的である(T6.421)」としたことに呼応する。

キェルケゴールは『おそれとおののき』の中でアブラハムとイサクの物語を述べている。アブラハムが息子イサクを、神の命令にしたがつて犠牲に捧げるということは、倫理的、理性的には殺人を犯すことである。しかし、それは、神に対しては命令への服従である。それは、また「殺すなかれ」という律法にも反している。だが、キェルケゴールはこのようなアブラハムの信仰が、倫理、道徳、法などの理性的かつ普遍的なものを超えたものであると説明している。信仰は、神と社会的倫理、通念、規範などの普遍性に対立するのである。信仰は普遍的な社会規範に基づく真理でなく、個別性でしかないのである。すなわち、信仰は単独の個が普遍的なものよりも高次にあるという逆説なのである。よって、キェルケゴールにおいて普遍的なものとしての倫理性は宗教的なもの以下のものとなる。倫理的なものは思弁的なものと同じく人間の理性によって限界づけられる。だが、信仰は概念化されないし、理性によって把握され得ない。聖書の中で語られるアブラハムは、神に対する関係において、徹底して神の命令を聴く側という実存的立場に立つ。これは、誰一人としてアブラハムの代行を務めることの出来ないものである。彼の体験は、彼の個別のものとなる。それは、誰にも伝達されることもない。この限りにおいて、神認識は他者に伝達され得ないものとなる32)。かくして、信仰は徹底して個別性に属する。それを他者へ伝達することもできない。この時、宗教的なものは人間の実存の段階では最も高度な段階であり、個別的かつ実存的となる。すなわち、人間的規範としての倫理は普遍的であり、人間の理性の範疇内で理解されるのに対して、宗教的な真理は、普遍的な哲学的体系の中に位置づけることも出来ないし、同様に神についての認識の直接的伝達の可能性はここで否定されることになる。キェルケゴールは言う。「アブラハムは媒介されない。言うなれば、彼は語ることができないのである。私が語るやいなや、私は普遍的なものを表現することになる。そして、もし私がそうしないようにしようとすれば、誰も私を理解することはできないのである。」33)

一方、ウイトゲンシュタインの場合、既に見たように倫理は超越的であり、世界の外にあるとされ、ここでも超越者あるいは超越的存在が意識される場合には、伝達のための概念化、すなわち理性は必然的に除外されるのである。このことからも、ウィトゲンシュタインは語りえないものへの沈黙を説くことで、語り得ないものの存在自体を否定したのではないことは明白である。むしろ超越的なものを予見しているのである。但し、人は語り得ないものについて沈黙しなければならないのである。もう少し正確に言えば、哲学の言語は超越的なものに対して沈黙せねばならないのである。ウイトゲンシュタインの哲学は宗教についての考察を直接の目的とするものではなかったが、彼が宗教について語る時には、キェルケゴールと同じく、理性による概念化が否定されるのである。