ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールにおける神及び伝達の理解の類似性 (3/6)
3:間接的伝達における類似性
C・L・クリーガンは、キェルケゴールとヴィトゲンシュタインの思想において共通の特徴は、哲学の場と限界が共に意識されている点だと主張する34)。哲学が及ばない異質なものがまったく不可避的に要求されざるを得ない領域が存在することをこの二人の思想家が意識しているというのである。C・L・クリーガンはこうした哲学の領域を限界づけようとする彼らの特徴を「同族的特徴(kindred feature)」35)と指摘する。この同族的特徴は哲学の領域を超えたものをいかにして伝達するかという課題へと向かうものとなる。そこで、C・L・クリーガンは、キェルケゴールの言葉を使いながら、次のように間接的伝達について言う。「産婆は利益を与えたいと試みている。しかし、もし助けられた人が、もし助けられたという考えを抱いたならば、その時、その助けは不利益となるかもしれない。だからこそ、間接的伝達は何とかして、産婆自身を知らせないで、志向される伝達を受ける者へとうまく接触しなければならない。キェルケゴールが他で語っているように、産婆は反対方向へ向かう受容者にすれ違わねばならないが、依然として、何とかして受け手を押し動かすものでなければならない!」36)。これは産婆という間接的存在が真理を伝授するための補助者として存在するという、キェルケゴールの間接的伝達の基本的な考え方である。また、ヴィトゲンシュタインにおいても、これは同様であるとクリーガンは考える。彼は、ヴイトゲンシュタインについて次のように言う。「論理学の営み(phenomena)と価値の両方は共に「超越論的」であると言われる。だから確かに、それらが存在しないと言われるべきではなく、それらが直接的に論じられないと言われるべきなのだ。世界が構成され、言語の中に映されているあり方を論じる事によつて、ヴィトゲンンユタインは語る事が出来ないそれらのもの事の重要性を間接的に示しているのである。哲学の厳密に正しい方法は、彼の言うところでは、ただ語り得ることがらについてのみ語るという事であろう。この方法は、彼が実際に使用している方法の中でも、更に間接的な方法である37)」。では、こうしたクリーガンの指摘も念頭に置きながら、両者の類似性を更に検討することにする。
(a)哲学について
キェルケゴールは直接的伝達の否定として間接的伝達が存在し、ただ間接的伝達によってのみ真理の伝達が可能であるとする38)。キリスト教信仰において、信仰とはただ信じられる他ないものであり、直接的な認識は否定される。しかし、近代哲学では信仰とは内在的なものであるとされ、蹟きの可能性が取り除かれてしまったとキェルケゴールは考える。そのような状態においては、キリスト教は教義へと作り替えられ、神と人間の質的な隔たりが無視されることになる。そのような哲学から表明されうるものは、キェルケゴールにとつては、「一つの意見と呼ばれるようなもの」だと言う。そして、そこから教義が作り出され、人は次にはこれを把握しようとする。キェルケゴールは、哲学が行っていることもこのようなことに過ぎないと批判する。また、彼にとって、信仰とは神と人間の根元的関係を扱うものであり、「神一人間(God―Man)は矛盾の印であり、直接的伝達の使用を拒絶する。すなわち信じることを要求する」ものなのである39)。以上のような点から、キェルケゴールは、同時代の哲学全般が真理の伝達を直接的に可能であると考えている点で誤っているとする。
これはヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の次の言葉に通底するのではないのか。「哲学的な事柄についてこれまで書かれた大抵の命題や問いは、偽なのではなくて、無意義なのである。それ故、我々はこの種の問いにけっして答えることができず、問いの無意義さを確認することしかできない。哲学者たちの大抵の問いや命題は、我々が我々の言語の論理を理解していないことに起因している。(それらは、善と美とは多少とも同一であるか否か、といった類の問いである。)・・・(T4.003)」ここで、「この種の問い」とは前節T4.002の日常言語の中に生きた人間の生の有様を指し、そこでは、日常言語は人間という有機体の一部であり、日常言語から言語の論理を直接読みとることは人間には不可能であるとヴィトゲンシュタインは述べる(T4.002)40)。「この種の問い」、すなわち人間の日常及びその言語によって有機的に織りなされる複雑な人生の生の有様等への問いに対して、哲学があたかも語ることができるかのように考えて来たことが誤りであり、このような誤りは哲学者の問いや命題が、言語の論理を理解していないことに起因すると言う(T4.003)。こうした主張はキェルケゴールが哲学の思弁からキリスト教の真理を守ろうとしたことと本質的には同じものである。すなわち、共に二人は哲学において理性の領域に対して一線を引こうとしたのである。
(b)像理論について
ヴイトゲンシュタインが後に放棄したものであるが、像理論について見てみよう。ヴイトゲンシュタインは現実の世界は像との間で形式を共有しているとする。(T2.022;T2.17)また、その形式は構造の可能性(T2.033)であり、像の写像の形式(2.15)であり、論理形式(T2.18)であり、論理像(T2.181)などである。そして、像は現実のモデル(T2.12)である。彼によれば、像は物差しのように現実に対してあてがわれるのであり、「目盛り尺の一番端の点だけが測定されるべき対象に接触する」のである(T2.15121)。すなわち、現実に対して形式として共有される部分だけを、像は写像するのである。像は実体そのものではないが、像の要素の触覚(T2.1515)の部分のみが現実と接触するのである。そこで、像はその像自身が持つ形式に応じてのみ現実のいずれかの部分を写像することになる。但し、像自身は写像形式を提示するのであって(T2.172)、自らを像は写像できないのである。なぜなら、像はその客体を外側から描出するからである(T2.173)。ところで、キェルケゴールは、伝達者自身が無となって伝達されるものと、他に伝達者が享受するものとの媒介となって伝達が存在するという間接的伝達の二つのあり方を述べている41)。命題が現実を描く場合に、「現実を描出しうるために命題が現実と共有せねばならないもの、すなわち論理形式を描出することはできない。論理形式を描出しうるためには、我々は命題と共に論理の外側に、すなわち世界の外側に立つことができねばならなくなるであろう(T4.12)」とヴィトゲンシュタインが言う時、命題が現実と共有する論理形式はどこまで行っても、世界の外側にあり、いわば命題はキェルケゴールの言う伝達者自身が無となって行われる伝達なのである。だが、それもまた伝達である。すなわち間接的伝達なのである。ここでもヴィトゲンシュタインは語り得ないものへの沈黙について提示していると言えよう。もし、伝達が自己自身について語るものだとすれば、それは直接的伝達であり、ヴイトゲンシュタインの言う「描出の形式の外側」に立ち続けるものではないからである。
論理形式は現実の形式(T2.18)であり、そこから現実の像は論理像となる(T2.181)。よって、像は写像の論理形式を写像されるものとの間に共有している(T2.2)。また命題は現実の像でもある(T4.01)。但し、像は描出が可能であるものについてのみ描出するのである(T2.202)。像の真偽を認識するためには、像が現実と比較されねばならないのであり(T2.223)、像自体がア・プリオリに真であることはできないのである(T2.225)。よって、像は常にキェルケゴール的に言えば、伝達者自身が無となって行う間接的伝達に近似した道具であると言えよう。ヴイトゲンシュタインにおいては、あくまでも像が像であり続けつつ、像が論理形式を超えたものを語ろうとする場合には、像はそれを間接的に示すという役割を担うことになる。なぜなら、像はまさに語りうるものの内側から語るものに過ぎないのであり、逆説的には外側を語るのではなく示すのである。それゆえ、語りうるものを語り尽くすことによって、語り得ないものが内側から示される可能性を、ヴィトゲンシュタインは信じていると言える。
(C)命題について
更にヴイトゲンシュタインは次のように言う。「我々は非論理的なことを思考できない。というのも仮に思考可能であるとすれば、その際には、非論理的に思考せねばならなくなるからである」(T3.03)。そして「「非論理的な」世界について、それがどう見えるかを我々は語り得ない」(T3.031)。人間の語る像や論理はすべて人間に思考可能な範囲の中でのみ可能であって、論理の枠を超え出たところについては、何事をも語り得ないからである。よって、言語は論理に矛盾することを描出できないのである(T3.032)。命題についても、同じく射影されること自身は命題に属さないのであり、命題にはその意義の内容は含まれないが、意義を表現する可能性、すなわちその意義の形式のみが含まれる(T3.13)。ここに、意義を問接的に示す可能性のみを命題が持つことになる。
更に、こうした命題に適用される単純記号をヴィトゲンシュタインは名と呼び(T3.202)、名は対象を意味し、対象は名の意味である(T3.203)と考える。人は対象について名指すことしか出来ず、対象について語ることはできても、対象を表明する、あるいは表出することはできないのである。よって、命題においてすべては語り得ないまま暗示されてくる。「命題はものがいかにあるかを語りうるだけで、ものが何であるかを語り得ない」(T3.221)のである。それゆえ、名は定義でしかなく、名はそれ以上には分解されない原始記号であり(T3.26)、命題という連関の中でのみ名は意味を持つのであり(T3.3)、命題は常に明晰に陳述可能な仕方で、それが表現する範囲を表現するにとどまることになる(T3.251)。よって、ここでも「名」は、いわば間接的伝達の道具となり、命題自身もキェルケゴールの間接的伝達の形式に合致してくる。命題はものがいかにあるかについてのみ語り、超越的なものについては暗示するという仕方でかかわるからである。命題は「命題に含まれる諸表現の関数」とみなされ(T3.318)、更に「関数記号はその独立変項の原型を既に含んでいる」のであり(T3.333)、命題変項において値の確定は、変項が共通のメルクマールである諸命題を引き出すに留まるのであり、命題において表現されているものを論理形式の枠内で記述しているに過ぎないことになる。命題変項の値の確定は「指示されることについて何も言明しない」のである(T3.317)。ところが、このように指示されることについて何も言明しない命題、すなわちキェルケゴー-ル的に言えば、命題は真理を直接的に伝達できないのである。ヴィトゲンシュタインは、そうした命題の総計こそ哲学の使用する言語であるとして哲学批判を行う(Cf.T4.001)。
哲学においては常に論理を足場としながら世界が構成され(T4.023)記述されるが、このとき命題はただあるがままの状態を伝達するのであり、命題は状態の論理像であることに留まり続けることになる(Cf. T4.03)。こうしたことから哲学の目的は思想の論理的な明晰化となり(T4.112)、思考可能なものを限界付け、更に逆説的に思考不可能なものをも限界付けていくものとなる。この時、命題は現実の論理形式を提示するに留まるのである(T4.1211)。
命題が言語によって構成されている限り、また、常に論理形式を内包するものである限り、言語と論理形式というフィルターを通過するという制約の下においてしか命題において真理が顕わとなることはない。たとえば、関数"fa"と"ga"があるとして、関数"fx"と"gx"に代入されるaは、二つの命題の共通の主語のような位置にある。しかし、aが何であるかについて“fa"も“ga"も語ってはいない。ただ、"fa"も"ga"も共に、aが"fx"もしくは"gx"という関数の中に置かれていることが示されるだけである(cf.T4.1211)。aについてはただ示されているだけであり、語られはしない。よって、命題において示されることは、語られることは出来ない(T4.1212)のである。示されるものはこの場合、超越的なものであり、語られ得るものは非超越的である。よって、ヴィトゲンシュタインは、ここで命題の内的関係と内的性質を区別する(T4.112)。関数"fx"や"gx"がどのようにaとかかわるかが内的関係であり、内的性質とは"fa"や“ga"におけるaの意味である。既に見たようにaの意味は何一つとして命題の中では語られない。内的関係について我々は語ることが可能であるが、内的性質については、aが何であるかは我々は語れないのである。ただ示されるに留まるのである。ヴイトゲンシュタインは彼の同時代の哲学者たちが、この内的関係と内的性質、更に現実の世界あるいは描出される対象としての実体への外的な関係を混同していると言う(T4.122)。
ところで、キェルケゴールは間接的伝達と直接的伝達とを区別するが、同様にヴイトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で「示す」と「語る」という語を区別して使用する。「示す」は間接的伝達に対応し、「語る」は直接的伝達に対応していると言えよう。ここで、両者の哲学が共に覚醒を任務としていると考えられはしないだろうか。キェルケゴールがヘーゲル哲学とH・L・マルテンセンをはじめとする理性による真理の概念化、普遍化へと向かう思弁的神学、及びデンマーク国教会のあり方に対する覚醒を単独者というカテゴリーにおいて志向した一方、ヴイトゲンシュタインは、彼の時代の哲学に対して覚醒を志向したのである。ヴィトゲンシュタインは次のように要約している。「正しい哲学の方法とは、本来次のごときものであろう。(1)語り得ぬもの以外、何も語らぬこと。 ・・略・・(2)誰か他の人が何か形而上的な事柄を語ろうとしている時には、常にその人に、あなたは自分の命題の中のある記号に何の意味も与えてはいないのだ、ということを指摘してやること。 ・・略・・(T6.53)」なのである。