ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールにおける神及び伝達の理解の類似性 (1/6)

堀 剛

1. ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールの比較について(序)

ヴィトゲンンユタインにおける哲学、宗教、倫理への視点とキェルケゴールの思想を比較考察し、両者の類似性を引き出そうとすることは、けっして数多くはないがこれまでにも試みられて来た。例えばR・ベルとE・ハウスウイットによる『キェルケゴールとヴィトゲンシュタインについてのエッセイ』がある1)。また、最近のものとして、C・L・クリーガンによる『ヴィトゲンシュタインとキェルケゴール』があり、両者の詳細な比較研究がなされている。ここでは、両者の類似点は学問の専門性の一致にあるのではなく、両者が共に間接的伝達を強調するところに一致点があると言う。二人の共通の関心は、むしろ「哲学的な議論が終結した後においてこそ出発しうる移行であり活動」の方にあると言う2)。本稿でも、こうした類似点を追い、二人の哲学者によって示唆されているものを見てみたいと考える。

ヴィトゲンシュタインが、いかにキェルケゴールを意識していたかは、彼の『文化と価値』を見れば明らかである。キェルケゴールの思想への共鳴がしばしば述べられている3)。しかし、これらのキェルケゴールヘの共感は、ヴィトゲンシュタインの著作及び会話録や遺稿、講義ノート等の量からすれば、表面的にはまったく僅かな量に過ぎない。そのため、どうしてもキェルケゴールとヴィトゲンシュタインの似ている理由は、哲学史的な関連においてはあまり考えられて来なかった。

S・トウールミンとA・ジャニックによる『ヴィトゲンシュタインのウイーン』4)によれば、ウイーンの文化のコンテクストからヴィトゲンシュタインの思想が出てきたものであったにもかかわらず、ヴィトゲンシュタインが活躍した英国においては、彼の思想の多くが彼独自の問題設定によるものであるという理解が生じたことが指摘されている。実際のヴイトゲンシュタインは、英国にいながらウイーンの哲学的、思想的コンテクストを踏まえて哲学を行っていたのである。そして、そのウイーンではキェルケゴール受容が哲学的論議に欠くことの出来ない事柄であったことが示されている。明らかにウイーンにおけるキェルケゴール受容がヴイトゲンシュタインにも影響を与えたのである。

本稿では、両者の比較を通して、まず前期ヴイトゲンシュタインが超越的なものと倫理的なものをどのように扱ったかを考察する。これは哲学的神学がテーマとするものに直接結びつくものであり、倫理の所在や神の存在の問題にかかわるものである。ヴィトゲンシュタインはこのような超越的なものは示されることは出来ても、語ることは出来ないものであると考えた。ここに哲学及び哲学的神学に対して、その表現と考察の方法論の限界が警告的に示されるのではないだろうか。あえて言えば、人間の思惟が神学的かつ哲学的に表出される場合、それは言語によってしか表出され得ない。だが、ヴィトゲンシュタインでは、倫理的なものは哲学的な言語によって表明されないとされ、キェルケゴールでは、宗教的かつ超越的なものは理性の範疇に所属するものではないとされる。ここに両者共に人間の存在を超えたものへの限界を見ているのである。このことがキェルケゴールとヴィトゲンシュタインの共通点である。本稿の目的は、そうした両者の主張を確認しようとするものである。

ソシュール、レヴィ・ストロース以後、構造主義やポスト構造主義において、真理がラングとしての一種の社会的産物として論じられて来た立場に対しても、ヴイトゲンシュタインとキェルケゴールの立場は、神学的反論の根拠を形成し得ると思われる。確かにソシュールによって、言語が恣意的なものであるということは解明された。しかしながら、その事から言語の限界が明確化されたと考えることは出来ても、真理の概念があらゆる意味で崩壊したことにはならないと思う。むしろ、キェルケゴールが語ったように、真理が概念化されないものならば、言語の恣意性によって批判されているものは、言語による表現方法であり、言語の領域外のもの(キェルケゴール的な意味での真理)にまでも批判が及ぶと考える必要はないだろう。

本稿では、主として、キェルケゴールの理性の限界についての考え方が、特に前期ヴイトゲンシュタインにおいて同質のものとして展開されているのを見る。そして、そこにある思想の共通性から提唱されているものを見たいと考える。

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