ヴィトゲンシュタインの哲学と神存在の問題について
4. 神存在と神学的言語の可能性
これまでに述べたように、「論考」では人の側の沈黙として、人は語りえないものについては沈黙しなければならないとある。更に、神の側の沈黙として、いかに世界があるかは、一層高きにあるものにとってはまったくどうでもよいことである。神は世界の中に自身を啓示しないとある28) 。この二つの沈黙が、いわゆる神の側と人の側に横たわっていると言える。すなわち論理と語りえないものの間に沈黙は横たわっている。このことは、ヴィトゲンシュタインがどのように語りえないものや神的なものを意識しているからといっても、彼の哲学はそこにおいては一種の無神論の形態であると言えよう。J・P・サルトルが新しいスタイルの無神論として、神が存在しないことを力説しようとすることによって無神論であろうとするのではなく、むしろ、たとえ神が存在しても何の変わりもないと主張したように、34) ヴィトゲンシュタインの場合も神の存在は意識されつつも人間との接点を持たないものである。彼における神への依存は、神への一方的な憧憬のような性質のものである。なぜなら、神は世界に顕現しないからである。キリスト教神学の言葉で言えば、このような思想ではキリストの受肉の考え方が受け入れられていないと言えるかも知れない。「言葉が肉体となった」という、いわば語りえないものが肉体をやどし、語りうる存在になったという考え方が彼に欠落しているという言い方が可能かもしれない。しかし、この言い方はひとまず控えて、彼の哲学にどこまでも執着しながら彼の言葉に対応した仕方で矛盾をとらえる作業を試みたい。ここから先は、「論考」に加えて、彼の中期以後の考え方である言語ゲームも含めて考察することにする。
言語ゲームという考え方においては、言語はゲームのように一定の規則、すなわち文法によって論理的連関を持っている。この文法によって一つの世界の構造が出来上がっている。そこでは、言語に対応するイデア的なものが常に存在するのではなく、言語の論理的網の中で論理が論理に連関するのである。ところで、後期の「哲学探求」では、語りえないものという表現そのものが使われなくなっていて、彼は語りえないものという考え方を撤回しているのかという印象を受ける。だが、言語はゲームであるという言い方は、言語に対応するイデア的な実在がいつも備えられているとする考え方をあらかじめ拒絶しているのである。そして、言語はそれだけで一定の言語自身の水準の世界で、ゲームを成立せしめるのみであるから、あらかじめ語りえないものに既に沈黙した結果として言語ゲームという考え方が出てきたのだと言える。だから、後期のヴィトゲンシュタインの哲学が到達した点は、「論考」の結論から展開されたものであると言える。すなわち、言語ゲームによって人は語りえないものをゲーム化した範囲で語るのである。ただし、ゲームが何ものもゲームの外側のものを指示しないように、言語は形而上学的な実在とは無縁である。そして、ヴィトゲンシュタインにおいては、言語の文法は生活形態が織りなすものである。ある言語を想像するということは、ある生活形態を想像することを意味する35) 。たとえば、機械文明には機械文明の言葉が存在し、農耕文明には農耕文明の言葉が存在するのである。言語はその生活形態を超越したものでも、それ以下のものでもない。では、このような言語ゲームの中では、神学の言葉はいかに神について何かを語っているのだろうか。
言語ゲームでは、我々が言語で指し示しているものや、指示語の対称物への言語の関係や、言語の名詞としての定義の機能も文法によって規則づけられる。文法内では、文法の諸規則が規則的連関を持つ。それは文法の網の中でのみ説明される。ここでも、前期ヴィトゲンシュタインの語りえないものへの沈黙が一貫されてくる。たとえば、誰かが神を信じるという場合、その言葉を聞く第三者は、共通の文法の中で、神という語が指し示している意味を検索し、その場合に合致する意味にたどりつく。けっして、神自体にたどりつくのではなく、そこで意図されたものにたどりつく。言語ゲームはそのような文法の世界である。こうした文法の支配下の言語ゲームの中にあるかぎり、我々は神について語り、神について説明が可能であると言えるかも知れない。そして、神を語ることによって、人間は神が開示されている部分について神を知っていると言えるかも知れない。だが、その開示はあくまでも言語ゲーム内に留まっている。そして、神についての考察も含めて、あらゆる解釈は規則のある表現を他の表現で置き換えるということにすぎない36) 。このような表現の置き換え、あるいは言語の置き換えが規則下においてなされる言語ゲーム内でしか、ある人の神についての解釈も他者に伝達されない。伝達、すなわちコミュニケーションは文法的、言語的規則のなかでのみ成立する。
もし、言語がコミュニケーションの手段とされる時には、ただ単に定義に於いて一致しているのみならず、判断に於いても一致していることが必要なのであるとヴィトゲンシュタインは主張する37) 。するとコミュニケーションの中に神についての伝達が含まれる時には、神は言語によって概念化された神となる。そこでは実存する個としての人間存在と神との関係は言語ゲームの領域では言語表現を介することでリアリティーを失う。言うならば、人と神は、相互の対話によって文法の中の関係にあるのではなく、人は神によって開示されたものを受け身に感受する立場にあるからである。感受されたものが他者である人に伝達される場合には、文法的規則による言語を媒体とせざるをえない。それゆえ、神によって開示されてくるものに対して、人は何かを語ることはできても、文法の編み目を抜け落ちるリアリティーには沈黙するのである。よって、たとえ神という語は共通に存在しても、定義においても、判断においても一致したことにはならないであろう。
厳密な意味での伝達は指し示すという仕方において可能であるかもしれない。ヴィトゲンシュタインは「哲学探求」の中で、言語ゲームの一つとして、また言語の原初的な形態として、指し示すことをあげている38) 。なぜなら、指し示すという行為は、これ、それ、あれ等の指示語をともない対象物がそこにあるからである。言語は表現の客体に突き当たってしまい、言語を言語で置き換える解釈はそこには存在しないし、言語ゲームとしての規則の連関が表現の客体そのものに突き当たることで遮断されるからである。この場合の言語ゲームはきわめて原初的であり、例外なく、いかなる言語もこの規則(指示語)を持っていると考えられる。およそ指示語の無い言語はありえないであろう。そこで「この人はまことに神の子であった」という言い方を例に、キリスト告白としてイエスと出会った人々の為した告白の持つ伝達可能性の問題を考えてみたい。このような直示的な仕方に於いては、人は神について示しうると言わねばならない。なぜなら、この人と指し示される存在は、複数の人々の前にいるこの人であるから、この人についての意味は何ら言葉によって補正される必要はない。そこにこの人がいて、人々がいて、この人についての共通理解としての神の子という理解がこの人を目前にする複数の個の前に生起している。この人についての共通理解が、人々の間で言葉に置き換えられ、語り合う対象となるのは、個々人の理解の次のことがらであり、第一義的に「この人は神の子」と示しているのだから、キリストという言葉の意味は直示されて、言葉を越えた体験としてキリストを見る人は意味自体に突き当たる。だが、使徒がキリストを直示できたのは、キリストがその場に受肉しているからであり、使徒たちの場合は、直接彼と向き合っていたからそれが可能であった。直示的には伝達が可能であっても、神と向きあっていないかぎり、我々の言語は神を直示できないし、語ることもできないと言える。神が受肉したということは、この世の語りうるものになられたということである。そのような神を直示する場に我々は今はいない。
しかし、直示の可能性、すなわち神について語りうる可能性がすべて閉ざされているわけではない。すなわち、直示の媒体としての象徴の持つ機能は、神を示しうると考えられる。そのことを指示言語の連関としての比喩や象徴の可能性について検証しつつ見てみよう。例えば、神を自然現象の嵐や洪水への恐怖と重ねて理解する場合に、この嵐は神のようであると言ったとする。これは嵐を目前にした場合の直示的表現であり、ここでも嵐についての言葉による説明は不必要であり、この嵐を感受する個々の実存の内に、その嵐についての理解の仕方はゆだねられる。すると、「この嵐は神のようである」という表現と「この人はまことに神の子であった」という表現は共に直示した後には言葉による説明や、言語を言語によって置き換える、いわゆる解釈を遮断したところで意味自体に突き当たっていると言える。「この嵐」という象徴語を使用した点は異なるが、「この人は神の子であった」という告白と近似性が生じている。指示語と神を象徴しうる目前の事物があるという条件下では、神について指示語で直示して、概念化せずに示しうると考えられる。
後期ヴィトゲンシュタインの場合、以上のような直示的言語はもっとも原初的な言語の形態と考えられている。例えば、言語の意味を説明したり伝達するのに、我々は言語で説明し、言語を言語で置き換えるという作業を行うが、それではまったく言語が白紙の状態である子供に何かを伝えるのはどのように行うのであろうか。彼はこれについて、次のように言う。「言語を教えるということは、この場合、説明ではなく、訓練なのである」39) 「この訓練の重要な部分は、教える人が対象を指さし、子供の注意をそこへ向け、そして、ある語を発するということである。例えば、石板を提示して『石板』という語を発するというわけである。(このような事を私は、指示による説明 (hinweisende Erkl{rung) とか定義とは呼びはしない。なぜなら、子供はいまだに名称について問うことができないのだから。私はそのような事を、言葉の直示的教示(hinweisendes Lehren der W{rter)と呼びたい。」40) このような直示的教示としての言語の使用は、指示言語と同じ働きを持っている。すなわち、語るべき対象が目前に据えられている場合に使用されるという共通性のもとで、目前のものを指し示すのである。子供の場合には、このような言語の学び方から、語彙量が増えていくことによって、やがて言語で言語を置き換えて表現するという状態に到達するのだと考えられる。だが、このような直示的な仕方での言語の教育や指示言語には、本来の意味で伝達という作用は欠落しているのではないのかと問うことができる。たとえば、直示的な仕方で「これは火である」と示した場合には、火の熱を「火」と理解したり、赤い色を「火」と理解する可能性がある。これを避ける為には、他の用例の中で熱や赤い色が他の言語で表現されることがあらかじめ伝えられていなければならない。他者にどの程度まで伝えれば、伝達者の「火」と同意で、被伝達者に「火」が伝わるのかを測定する事はきわめて困難な作業である。なぜなら、伝達者と被伝達者が感性的に共通のものを持っているという確認はできないからである41) 。それゆえ、直示的な言語の使用や、指示語は伝達作用の限界上にあると言うことができる。「火」が「火」であると定義された後にも、伝達者と被伝達者は互いの意味理解の開きがいかなるものか確認することもできないにもかかわらず、指示語による伝達は示されたものの実体に言葉が到達するのである。伝達は完全であるかもしれない。あるいは不完全であるかもしれない。伝達内容を伝達者と被伝達者の間で確認しようとする場合には、両者間に共通の理解が成り立つ定義としての言語によってしか、それを確認できないのである。だが、「火」を感受した者と「火」そのものとの関係は、言葉のみによって、「火」を想起させられた伝達の場合とは根本的に異なっている。すなわち、人Aから人Bへ直示的に「火」が伝達された場合には、人Bが「火」を見て「火」と呼べば伝達の目的は果たされたことになるので、「火」についての内容的な理解の仕方はすべて人B自身と「火」そのものとの間で成立する事にすぎない。この場合、人Aは「火」について言語「火」の使用を伝えたに留まっている。人Bの「火」の理解のあり方は、どのようなものであっても人Bに私的に存在する。それが人Aと人Bの間で表象される場合には、言語「火」が使用されるだけである42)。
以上に、述べてきた事から、直示的な言語の使用や指示語による表現の形態は、伝達者から被伝達者への意味の伝達ではない。それは、被伝達者が対象に眼を向けることを促す行為に他ならない。その場合、仮に「この嵐は神のようである」という表現の場合には、嵐に対する直示的な言語使用であり、そこでは被伝達者は嵐を直示的に見るし、そこで嵐が喚起する意味を被伝達者は感受することになる。その感受の内容を論じることは他者にはできないことである。なぜなら、理解は私的なものであるからだ。このような直示的な方法で何かを示すことにおいて、意味が伝達されたと言いきるのを阻む根拠はどこにも存在しないはずである。なぜなら、逆に伝達を証明する何の基準も有り得ないからである。あるとすれば、それはすでに私的な理解ではない何かによって、表現されるだけのことでであり、あるいは共通の言語が伝達する共通の意味範囲に留まっている意味が概念化されて伝達されるだけのことである。
確かに、人は語りえないものに沈黙せねばならない。だが、あくまでもそれは、概念化された言語に、語りえないものをあてはめることが許されないし、あてはめるのが不可能であるということではあっても、直示的にかつ象徴による指示言語の使用においては、我々は語りえないものを指示語によって示すということは可能である。そして、言語において神の方を見るということも可能であると言わねばならない。
以上の考察から、象徴及び指示語の使用においては、ヴィトゲンシュタインの言う神と人の双方の沈黙が破られる可能性を見ることができると考えられる。