ヴィトゲンシュタインの哲学と神存在の問題について
3.語りえないもの=神について
(1) ヴィトゲンシュタインの神
すでに見てきたように、ヴィトゲンシュタインのいう世界は二重の構造を持っている。一つは私という自我あるいは個人的経験的世界である唯我の世界であり、他方は自我を包括した超個人的かつ唯我をも包括する世界である。そして、二つの世界は共に言語において限界付けられているが、その限界の彼岸には人間にとって語りえないものが存在する。そのようなものはそのまま神という言葉ですべてが置き換えられることはできないのか。このことを彼の神についての言及を追いながら考察したいと思う。
彼にとって、「神を信じるとは、生の意義に関する問いを理解することである。神を信じるとは、世界の諸事実によってすべて説明されるわけではないのを知ることである。神を信じるとは、生が意義を持つことを知ることである」23) 。神を信じることは、生の意義に触れることに他ならない。そして、人間の営みとしての世界の事実を超えたところに生の意義が存在する。このことは、既に見てきたように世界の意義が世界の外にあると述べられたこととまったく同義である。そうだとすれば、世界の事実が何であれ、人間の生の問題や実存の問題への回答は、世界内からは何も導き出すことができないことになる。なぜなら、個人的実存を形成する生の意義と実存を超越した事象としての世界の事実は厳密に区別され、事象としての世界の事実と個人的実存としての生は影響を互いに与えあうことはあっても、厳密な区別がなされているからである。すなわち、世界の意義は世界の外に求められねばならないというのは、因果論でいえば目的かつ原因に相当する意義が、既に存在それ自体として在る世界の中では、何ら見いだされないからである。このことは、一つのグラスの存在にたとえることができる。仮に、グラスが自らがグラスと名付けられ、物質成分が何であるかをグラス自身が知っているとする。しかし、そのグラスの存在の意義はグラス自身に求められることではなく、グラス自身がそれをグラスとして自らに意義を与えるのではない。それをするのは間違いなく、その場合には人間である。グラスの意義は水を入れるものと人間が決定することができる。このような意味に於いて、人間は自己の実存的存在の意義を世界内で、あたかもグラスの意義を決定するようなものとして為す事ができる。すなわち、世界内での意義として人生の意義を問うのである。だが、それを超えるものについて人は何も語ることができない。それゆえ、神を信じるとは生の意義に関する問いを理解し、世界の事実によって問題が片づくわけではないことを見て取り、生が意義を持つことを見て取ることなのである24) 。このことから、生の意味は人間の側から決定できるものではなく、神の側においてこそ決定されるものであると考えることができる。それらは人間には知りえないものなのである。それゆえ、人間は神を語りえないものとして意識するにとどまるのである。この意識はヴィトゲンシュタインにおいては、依存するという言葉で表される。「世界は私に与えられている。すなわち私の意志はすでに完成したものとしての世界に、まったく外側から近づくのである。(私の意志が何であるか、私は今なお知らない。)だから我々は、ある見知らぬ意志に依存しているという感情を抱く。これがいかにあるにせよ、いずれにしても我々はある意味で依存している。そして我々が依存するものを、神と称することができる。・・・・略・・・・幸福に生きるためには、私は世界と一致しなければならない。このことが『幸福である』と言われることなのである。その時、私は自分がそれに依存しているあの見知らぬ意志と、いわば一致している。それが『私は神の意志を為す』と言われることである。」25) 個人の生はただ、神を受け入れるということによってのみ意義を持つと彼は述べている。人間の人生の意義に対する意識は、超越論的な存在としての神を受け入れることによって見いだされ、世界と一致することによって、神の意志を行うことができると彼は述べる。そこには人間の見知らぬ意志への依存がある。この意識こそ、ヴィトゲンシュタインに、語り得ないものという言い方で表現せしめたものへの意識なのである。
ある見知らぬ意志に依存しているという感情とその意識は人間の側の意識である。もし、その意識を喚起するものについて考察を行うとしても、人間にはそれは不可能である。その確認は我々が我々自身を超越する作業となってしまうからである。ヴィトゲンシュタインは依存という人間から神へと一方通行に通底する感情を語りつつ、我々が依存しているものを神と称することができると言う26) 。ここで彼が言う神とは、語りえないものそのものである。そして、依存という感情において見いだしうる神である。
(2) 神の啓示と語りえないもの
ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』のなかで神の啓示に関して、次のように言う。
「いかに世界があるか、一層高きにあるものにとってはまったくどうでもよいことである。神は世界の中に自身を啓示しない。」27) 本来啓示とは人間を超越する他者としての神が、人間の領域に顕現することであるから、それは人間の世界とは隔絶されたところから示されるものである。ヴィトゲンシュタインにとっても、神の啓示は人間の認識世界を超越したものである。だから、それが世界に顕現したときには、彼はそれを啓示とは呼ばないのである。神は世界の限界の彼方の存在者なのであり、神の啓示は存在しないと言うのである。それゆえ、世界は常に論理的である。「神はすべてのものを創造しうるが、しかし論理法則に反するものだけは例外であるとかつて言われた。というのは『非論理的』世界についてそれがどう見えるかを我々は語ることができないからである。」28) 「いくつかの諸命題が真となるような世界を神が創造するとき、彼はこのことにより、これらの諸命題からの帰結命題がすべて正しいとされる世界をも既に創造しているのである。そして同様に神は、命題 "p"の対象のすべてを創造せずに、"p "が真である世界を創造できない。」29)
ヴィトゲンシュタインは世界を構成する原因としての、あるいは世界の意義としての神の存在は認めているが、その神は世界に対しては超越した外側の存在である。このことは、人間の論理的観察による世界観の枠組に神があてがわれることなど、とうてい不可能であるのを示している。また、世界は自己充足的ではなく、神によって意義が与えられている。ヴィトゲンシュタインによれば、この意味で、構造体としての世界は神によって存在が原因づけられているのだが、人間はその構造の原因に触れることができないのである。
既に見てきたように、ヴィトゲンシュタインは、人間が語りうるものの存在の範囲を限定することによって、超越したものの存在を全面的に否定したのではない。むしろ、超越したものの存在としての語りえないものに対する人間の関係を深く意識している。ここで次のような疑問が生じる。語ることのできないものは、語ることのできることを語ることによって、同時に語りえているのではないのかと。このように考えると語ることのできないものは語ることのできるものの逆説的位置に立つかのようである。確かにヴィトゲンシュタインは哲学の語りうるものを明らかに叙述することによって、哲学は語りえないものを意味すると述べている30) 。しかし、これは語りえないものが示されるだけであって、語りえないものが語られることとは区別される。ヴィトゲンシュタインがハイデッガーとキェルケゴールに触れて述べた言葉がある。そこでは、キェルケゴールやハイデッガーを言語の限界へ突進したと評している。「私はハイデッガーが存在と不安について考えていることを、十分に分かる。人間は言語の限界に向かって突進しようとする傾向を持っている。たとえば、何かが存在するという驚愕を考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現されることはできないし、また、まったく答えも存在しない。われわれがたとえ何かを言ったとしても、すべてはア・プリオリに無意味である。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進する。キェルケゴールもまたこの突進を見ていたし、彼はそれをまったく似た表現(逆説への突進)で言い表しているのだ」31)
この言語の突進において、同時に人は言語の限界に突入し、世界の裂け目へと突入しようとする。だが、この作業は果たして語りえないものを解明することにつながるのであろうか。ヴィトゲンシュタイン自身の見解としてはそれは否定されている。「私の全傾向、そして私の信じるところでは、倫理とか宗教について書き、語ろうとしたすべての人々の傾向は、言語の諸限界に逆らって進むということであった。このように我々の獄の壁に逆らって走るというのは、まったく、絶対に望みのないことである。・・略・・しかし、それは人間の精神に潜む傾向を記した文書であり、私は個人的には深く敬意を払わざるを得ないし、また生涯にわたって、私はそれをあざけるようなことはしないであろう。」32) この言葉は1929年の講演内容の一部である。ここでも、人は語り得ぬものについては、沈黙せねばならないという「論考」の最終結論に等しい見解が示されている。
以上のことから、ヴィトゲンシュタインにとって、神は人間が語りうる範囲を超越した存在であり、神を意識することは語りえないものについて意識することであると言うことはできても、語りえないものは限界の彼方にあるとされるに留まる。人間の認識する世界の内側を形成するものに対して、世界の外側が予見されている。もっとも、それに対しては人間は語りえないのであり、沈黙せねばならないのである。また、そうした世界の内側と外側を切断する境界線という概念も、論理の限界として内側から予見されていなければ、語りえないものに対する沈黙も警告されえない。その意味で、語りうるものを明らかにすることで、語りえないものを探るのである。ヴィトゲンシュタインは「論考」の序文において、次のように前置きしている。「本書の全体の意義は次の言葉にまとめられよう。すなわち、およそ語られうることは明確に語られうる、そして話すのが不可能な事については、人は沈黙せねばならないと。それゆえ、本書の目的は思考に対して、いや、むしろ思考に対してではなく、思想の表現に対して限界を引くことである。なぜなら、もし思考に対して限界を引くのだとすれば、このために我々がこの限界の両側を思考できねばならなくなる(従って、思考不可能なことを我々は思考できねばならなくなる)からである。従って、限界は言語の中にのみ置くことが出来る、そして限界の彼岸にあることはまったくの無意味であろう。」33)