ヴィトゲンシュタインの哲学と神存在の問題について
2.「論理哲学論考」における世界の構造と神の場
1919年6月、ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考( Tractatus Logico - Philosophicus.以下「論考」とする。)」の原稿を、バートランド・ラッセルのもとへ送った。それは1921年秋「自然哲学年報」(Annalen der Naturphilosophie)に発表された12)。 その後、1922年に英独対訳版が出版され、1933年にヴィトゲンシュタイン自身による補正がなされて現在の「論考」ができあがった。ヴィトゲンシュタインが「論考」を発表する前の1914年から1916年の日記には、「論考」の下書きが多く含まれている。それらは、「論考」の理解を十分に助けてくれる補足資料として活用できる。よって、彼の日記も参照しながら考察を進めたい。
ヴィトゲンシュタインは1916年7月8日の日記の中で、「二つの神的なもの、すなわち世界と私の独立した自我が存在する」と述べている13)。 世界と自我の存在は等置して把握せねばならないことが指し示されている。どちらが世界にあって優越するかが問われているわけではない。ただ、二つは等置されている。人が世界の意義をとらえようとすれば、世界を意識していなければ、自我についても、世界についても把握できない。だが、個々の人間存在が世界内の個である限り、個としての人間は世界の意義を内側からとらえることはできても、外側から包括的にとらえることが出来ない存在と言わねばならない。その意味で、ヴィトゲンシュタインは世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にあると述べる14) 。そうだとすれば、人間は世界が何らかの意義を持っていることを肯定することも否定することも出来ないことになる。このことは、「論考」の帰結であるところの人は語りえないものには沈黙せねばならないという言葉と密接に関係している。世界の意義は、世界を包括的に見る立場、すなわち、世界の外からしか語れないものだが、人間が内側に存在するのであるから、世界の包括的意義ついて語りえないのである。「世界の意義は世界の外になければならない。世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。世界の中にはいかなる価値も存在しない。そして、もし存在するとしても、それは価値を持たないであろう。価値がある何らかの価値が存在するならば、それはすべての生起や、かくある(So-Sein)の外になければならない。なぜなら、全ての生起やかくありは、偶然的だからである。それらを偶然的でなくするものは世界の中に存在することはできない。もし、それが世界の中にあるとすれば、これもまた偶然的であろうからである。それは世界の外になければならない。」15) ここでヴィトゲンシュタインが世界の中に存在しないという価値とは、「世界の意義」という彼の言葉を言い替えたものであると思われる。この場合の「世界」とは、人間の実存のみから出発して把握する世界観や、唯我論的な世界観による世界ではない。人間の存在は世界の意義の側からすれば、世界内に位置づけられたある種の部分にすぎないのだ。彼は、それゆえ、次のように言う。「神と生の目的とについて私は何を知るか。私は知る、この世界があることを。私の眼が眼の視界の中にあるように、私が世界の中にいることを。世界についての問題となるものを、我々が世界の意義と称することを。こうした意義は世界の中にはなく、世界の外にあることを。生が世界であることを。私の意志が世界に浸透していることを。私の意志が善か悪であることを。それゆえ、善と悪は世界の意義との連関があることを。生の意義すなわち世界の意義を我々は神と呼ぶことができるのである。そして父としての神という比喩をこれに結び付けること。祈ることは世界の意義についての想念である。世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。私は出来事への影響を断念することによって、自分を世界から独立させることができ、よって世界をある意味では支配しうるのである。」16) 「世界は私の意志から独立である。仮に我々の望む全てのことが生起したとしても、これはいわば運命の恩寵にすぎないであろう。なぜなら、意志と世界との間に、このことを保証するようないかなる論理的な連関も存在しないからである。」17) ここで彼が言う「世界」とは実存的な個の世界ではなく、人間の存在を外側から包括し、個としての実存を包括する「世界の意義」のことである13)。 この世界に対して個は限界づけられている。こうした唯我論の限界についての考えは、形而上学批判としても読み取れる。すなわち、人が哲学的かつ神学的な言葉を語り合う場合に、その言葉が指し示すものは言葉の領域を越えたところにおいては存在しないのであり、人間の思考の領域内で言葉が存在するだけなのだ。よって、人は言葉のやりとりの帰結によって導かれたものを、人間の思考する言葉の領域を離れても超越的に存在していると考えることはできないのである。人間の言葉は、言葉であるという限界の中にある。言葉は一つの体系であり、規則であり、規則は他の規則に対して規則性によって連関する。そのような中で、「世界の意義」は世界の内側の言語によって構築されるものではなく、我々の言語によって想像の対象となりえない世界の外側を形作っている何かである。それについて人は沈黙しかできないというのがヴィトゲンシュタインの主張である。
「世界の意義」は、私の世界の外になければならないとヴィトゲンシュタインが述べるとき、私という限界によって、すでに意識されうる超個人的世界の存在への意識や予感はありえても、それ自体の完全な所有や認識はありえないのである。こうした自己の意識を限定し、規定しているものが何であるかについても人は語ることができない。人間の限界は肉体的、時間的にもそのほか様々に制約されているが、ヴィトゲンシュタインは人間の言語自体が持つ限界こそ、「世界の意義」に対して一線を画すると考える。同じく、個の言語の諸限界が個の世界の限界を意味すると述べる18)。 言語的限界が思惟の限界を形成し、思惟されている世界は、そのまま外側の「世界の意義」への限界なのである。もし、人が事象に対して意味を見いだしうるとすれば、その事柄が人の認識世界の中に存在する限りにおいてそのことが可能である。思考されるものは人間の認識作業の限界内にある。考察が成立しないものについては存在を確認することはおろか、論じることすら出来ないのであるから、我々の世界の範囲は、我々が考察し、論じることの出来ている範囲でしかありえないのである。
「論理は世界を満たす。よって、世界は論理の限界でもある。それゆえ、我々はこれこれは世界に存在するが、あれは存在しないと論理の中で言うことはできない。というのも、このことはある可能性の排除を前提としているかに見えるが、これは事実に即していない。なぜなら、仮にそうだとすれば、論理は世界の限界を越えなければならないからである。すなわち、そのようになるのは、論理が世界の限界を外側からも考察できる場合のみである。我々が考えることができないことを、我々は思考することができない。従って、我々が思考することのできないことを、我々は語ることもできない。」19) 「この観点が、唯我論がどの程度真実であるかという問いを決定するための鍵を与える。すなわち、唯我論が表明することは全く正しい。ただそのことは語られることができず、自身を示すのである。世界は私の世界であるということは、唯一の言語(私のみが理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている。」20)
あくまでも、人間が一人の人間であるという限界の中に存在している限り、唯我の中に存在しているというのは一方の事実である。だが、世界が私の世界であるという限界は、言語の限界によって引き出される。なぜなら、唯我は私による言語の世界にすぎないからだ。唯我論が可能なのは、私という個人的な世界の中のみである。更にそうした私の存在は、世界の一部に過ぎないのである。21)
ヴィトゲンシュタインによれば、言語にとって語ることが不可能なものは、世界の構造の外に存在することが確認されねばならないし、そのようなことが不可能である限り、その存在態様について、人間の言葉は沈黙されねばならない。人間の世界は語りえないものによって、空間的広がりを限定されている。かつ、同時に語りうるものとしての世界として、人間の知る世界が成立している。
一方、彼は語りうるものを語ることによって、語ることのできないものの存在が示されると「論考」の中で述べている22) 。では、語ることのできないものとは何かが更に問われるべきである。