気づきについて 堀 剛
心理学の用語として「気づき」という言葉がある。これは誰が気づくというのかと言えば、当たり前の事だが、悩んでいるその人が気づかねばならない。でも、下手をすると、悩みを抱えている人よりも周囲の人が気づいたような状態になって、悩みの主を取り囲んでいるという状況も起こりうる。
たとえば、登校拒否やひきこもり状態になっている子どもに向かって、気づいたつもりで周囲が説得にかかる光景を何度も見たことがある。でも、当の悩みを抱えた本人が気づかなければ何も始まらない。その意味ではとても気の長い作業を覚悟しなければならないだろうし、子ども本人に気づきが開花するのをじっくりと見守らねばならないだろう。
こんな分かり切った事を分かったように書いてはいるが、私も先に何かを気づいて教示や説教を垂れるようなことだけはしないように注意したいと思う。
たとえば、ギリシャの哲学者であるソクラテスは「私は何も知らない」と言っていた。でも、「何も知らないことを知っている」とも言った。多くの知を自認するソフィストたちが彼のもとを訪れたが、彼を訪問する人は自分も何も知らないということへの気づきを与えられたと思われる。それもソクラテスの方がレベルの高い賢者として語ったのではなく、ソクラテス自身は自らの知の限界を否定しつつも、訪れる人に何も知らないということを自認させたのである。
デンマークの哲学者であるキェルケゴールもソクラテスの思想の影響を受けている人だが、彼は人が人に何かを伝えることを直接的伝達と間接的伝達との二つに分けて論じている。つまるところ、真理は間接的にしか伝達できないと彼は考えた。要するに訓辞を垂れるのではなく、伝える側は自らの生き方を通して何かを示すしかないのある。
話を平たくセラピーに戻すならば、カウンセラーからクライアントに向かって、「君はこうすべきだ」というような直接的な指示などはあってはならないことなのだ。このように言われたいと期待する人もいるのは否定しないが、でも、カウンセラーが気づいたことを答えだと言わんばかりに押しつけてみても何も起こらないだろう。たとえ、人生の達人(それがどんな人なのか、私もよく分からないが・・)が自分の気づきを押しつけてみても、仕方がない。あるいは、たとえ神様がそれを押しつけてみても仕方がない。問題は本人が「気づく」かどうかでしかない。
ソクラテスは問答法という対話形式で相手に気づきをもたらした人と言えるだろう。身近な人が迷っていて、周囲は歯がゆい思いをすることは分かる。でも、本人が気づくことを待ってあげる優しさこそ、変化への糸口にかかせないものだと思う。