コギトと外部世界(6/6)
第5章 結び
ここまで述べて来た事柄は、デカルトのコギトから出発した論証である。だが、言うまでもないがコギトを批判しているわけではない。コギトは自己の内省の限定的な領域において成立していると考える。しかし、ひとたび認識の共有を論じるとなると、たちまちコギトの迷路の中に入ってしまい、確固たるものとは思えなくなる。それは私が若いころ落ち込んだ哲学的落とし穴だったように思う。結果的に本稿はそこから脱出するために考えたことがらをたどったものでもある。
繰り返すが、コギトは内的確実性としては認められるが、認識の共有を保証できない。いかにして客体にたどりつき、それをいかにして他者と共有するか、そのような課題とともに、この議論の延長には言語が身体性をともなって成り立っていることが見え隠れしてくる。
もともと人間が発する言語を問題にしているかぎり、人間そのものが問われざるをえないし、人間は精神的かつ身体的存在なのである。それゆえ、実在性を探究するならば、そこに身体性についての考察が求められるのは言うまでもないだろう。
(参照した文献)
ルネ・デカルト『省察』山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2009年、pp.45–48。
Ludwig Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen, §243. §258. §272
“The Ludwig Wittgenstein Project”より原文を入手し拙訳
https://www.wittgensteinproject.org/w/index.php?title=Main_Page
『旧約聖書』出エジプト記 3:13–15 (日本聖書協会 新共同訳)
Johannes Climacus, IV 147 / Hong, 168/ Princeton University Press (英文より拙訳)
Søren Kierkegaard, Johannes Climacus, or De omnibus dubitandum est
以上