コギトと外部世界(5/6)

堀 剛

補 足

ここで一つ追加的に述べたいことがある。新約聖書の学者が語ったことであるが、イエス・キリストの復活はその証明としてあと一歩のところまで来ているというのである。これは誤解の可能性がある。文献学的かつ新約聖書学的な探究の内容は、いくら原典となる写本や資料を駆使しようとも、それらは実体として存在したとされることがらが文として置き換えたものにすぎないので、それは実体とは違うのだ。仮にあと一歩のところまで証明がなされたというならば、それは証明された文献にそう書かれていたということの証明にしかならない。フィルム時代の写真のネガがあるとする。そのネガが発見されたとしても、そこに映り込んだものが実体そのものではなく、あるいは本当に実体に対してカメラが向けられ撮影されたのかとか、被写体は偽造されたのではなどと、どこまでも疑念が続くだろう。なぜなら、フィルムは被写体である実体に対して、主語、述語関係にあるからだ。述語であるフィルムは主語である実体と同一ではないからだ。