コギトと外部世界(4/6)

堀 剛

第4章 論証とは何か

論証につきまとうのは常に何事かを述語化することである。しかし、述語化するということは、常に一定の特徴を表す側面を述べようとする結果でもあるが、実体そのものを表すことにはつながらないのである。例えば、線分とは点の無限個の集合であるとしても、点をいくら集めても、線分とはならないように、述語は質的に主語とは異なるのである。様々な類似するものを列挙しても質的には異なるものでしかない。いくら説明を尽くして述語を述べても、「我」について語りきることはできない。述語としての「我」は実在として存在する「我」とは質的に異なるのである。

実在については述語では表現できないということについて、キェルケゴールは仮名ヨハンネス・クリマクスにより「第2節 意識とは何か(What is Consciousness?)」の中で次のように言う。


"Reality I cannot express in language, because to point it out I must use ideality, which is a contradiction, a non-truth. But how is immediacy annulled? What, then, is immediacy? It is reality. What is mediacy? It is language. How does language annul reality? By speaking of it. ... Language is opposition, it is contradiction."


「実在(Reality)を私は言語では表現できない。なぜなら、それを示すには理念性が必要となるからであり、それができるというのは矛盾であり、真理ではなくなるからである。だが、いかにして直接性(即時性)は無効化されるのか。では、直接性(Immediacy)とは何か。それは実在(reality)である。間接性(媒介性mediacy)とは何か。それは言語である。いかにして言語は実在(reality)を無効化するのか。それについて語ることによってである。・・・言葉とは対立であり、矛盾に他ならない。

(Johannes Climacus, IV 147 / Hong, 168/ Princeton University Press )『ヨハンネス・クリマクス、あるいは一切のものが疑われねばならぬ』より)


キェルケゴールにとって、理念性とは概念性であり、概念は理性によって把握されることによって形成される。しかし、神の存在についての認識はそもそも人間を超えた存在についての認識であるから、概念は神の存在に到達できない。概念化するということは、既にその客体である神を概念以下のものへと格下げしているのである。そこで把握されるものは既に神でもなければ、実在でもないことになる。

よって、キェルケゴールは伝達についても間接的伝達と直接的伝達とに分けて論じる。間接的伝達においては、言語は発語者自身の意思や感情の表明や表現である。あるいは、事柄の伝達においては、言語は常に表現されようとしている事象の媒介であり、再表現、すなわち述語化されたものであり、イメージの再表現なのであって、言語自体は事柄自体とはなりえないのである。すなわち、表現されようとしている実体そのものではないのである。それゆえ、言語における事柄の描写である伝達においては、言語は間接的伝達としてしか機能していないのである。もし仮に、直接的表現としての言語をあえて想定するとすれば、それは詩的言語であり、私はそれを言語芸術と呼びたい。シュールレアリスムの中でも特にオートマティズムによる詩はそれに該当すると思う。それは表現ではなく、言語自体が何かを代弁するのではなく、それ自体が実体的なものを表出しようとする試みである。しかし、通常はそのような言語の直接性は存在しない。言語は媒介としての再表現による伝達、すなわち述語を含む形式となる。たとえ自らの意思と思考を示す発語であっても、厳密には発語された言語は意思と思考を再表現することになる。それゆえ、言語は思考の道具となることはあっても、直観の道具ではない。言語は実体そのものの再現とはなり得ないのである。

だが、ここで発語の際には身体の動作がともなう場合があることも考察の対象とすべきだと考えられる。もし人の表情も身体に加えるとすれば、およそ人と人の関係の中で語られる言語はどれも身体性をともなう言語であると言えよう。また、動作として何かを示しながら、たとえば指をさし、手をあげてなどの動作は言語と連関するのである。そしてまた、指がさされるときには「これ」「あれ」「それ」というのみで明示的述語はなくとも、身体的共同状況が述語機能を担っている。すなわち、語としての述語は動作によって語られるのである。それゆえ、人間の実在は思惟のみに還元されず、身体的関係性の中で他者との世界を共有するのである。