コギトと外部世界(3/6)

堀 剛

第3章 ヤハウエという名について

ところで、デカルトの言う神は西洋カトリックの神であるが、その神はキリスト教の母宗教であるユダヤ教においては、その名はヤハウエである。この名は「我あり」を意味する。「我思う、ゆえに、我あり」の「我あり」は紛れもなく神の名と偶然にも同一である。

ここで少し考えてみたいのだが、我々が自分について語る場合は「私は男性です」、「私は女性です」、あるいは「学生です」、「教員です」という具合に様々な述語を連ねるのが通常である。そうでなければ、私について説明したことにはならない。ところが私は何々である。私は云々であるという言説を限りなく付け加えても、私が何であるかを語りきることはできない。なぜなら、私とはそこに現前する私という実体は私が私に対して関係する意識であり、私は何々であるという述語の中で私という実体は表現され得ないからである。

あるいは、時と場合によっては「私は20歳です」と言うだけで、社会的に大人として扱われるということもあれば、私は女性ですというだけで、必要とされる事柄が了解されることもある。だが、これはそこにある状況の中で求められている「私」というもののラング内でのコードが発語者と発語を受ける者との間で了解を成立させている。すなわち、コード化ができているというだけのことに止まる。けっして、私の実在を了解させたり、されたりが生じたわけではない。だから、私について実体と同一の私を語るとすれば、それは「私は私である」と言わねばならなくなる。

旧約聖書「出エジプト記」では神の名が表明される。BC1300年頃、エジプトのラメセス2Cの時代。ユダヤ人はエジプトで奴隷であったが、モーセに率いられてエジプトを脱出することになった。その際の神とモーセとの対話が記されている。


3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。


YHWHと表記される神の名は現代ではヤハウエと読む。この名はヘブル語の「ある」という動詞(ヤーハー)が語源だと考えられている。それゆえ、「私はある」とは神の名である。これはユダヤの神観を表わしていると言えよう。

イスラエル民族は、紀元前1300年頃のモーセの時代にはエジプト永住がかなわず、アブラハム時代からの約束の地であったカナンの地(パレスチナ)へ向かうことになった。それゆえ、イスラエル民族は遊牧の民として約束の地へ向かったのである。遊牧民であったイスラエル民族は本来、農耕民のようにひと所に居住しないので、移住していた時代は神殿のような建物を持たなかった。後に、カナンすなわち現在のパレスチナへと侵入し、やがては国家を建設し、そこで建てられたのがエルサレム神殿であった。

彼らにとって、神は目で見ることができない存在でありながら、同時に存在の本質に直結する存在でもあった。それが出エジプト記の神のイメージである。そのイメージはこの世の何者によっても再現されないものであり、また、何かに置き換えることも出来ないのであるから、述語化されないのである。だから神の名は述語化なしに名となる。これは言語形式の問題であり、かつ神を象る偶像をどこまでも拒絶してきた旧約聖書の歴史とも一貫している。よって、YHWHは「私はある」が名となる。因みに以前の口語訳聖書の訳文では「私はあってあるもの」(出エジプト3:14)と訳されていた。説明的ではあるが、意味としては分かりやすい。神は自らを存在として自ら存在せしめる存在なのである。これはたんに表現の表面的な類似性ではなく、述語化できない(概念化できない)存在は、述語が存在しない形式で表現されるという一つの例である。

神は述語化されない存在であるということは、神について何ら直接的に表現を成立させることができないということでもある。神は絶対的な主体存在であるから、我々は神を述語化して認識することが不可能であり、また、神を知る場合にも何らかの述語によって知るのではなく、「私はある」を感受する必要がる。また、述語化するとはキェルケゴール的に言えば、概念化することであり、それは神を理性によって措定されうる概念以下のものに置き換えることとなる。すなわち、概念化を経た神は理性以下の存在に措定され、そこでは人間の方が優越することになる。