コギトと外部世界(2/6)
第2章 私的な語りについて
ヴィトゲンシュタインは次のように言う。
243. Wäre aber auch eine Sprache denkbar, in der Einer seine inneren Erlebnisse – seine Gefühle, Stimmungen, etc. – für den eigenen Gebrauch aufschreiben, oder aussprechen könnte? – Können wir denn das in unserer gewöhnlichen Sprache nicht tun? – Aber so meine ich’s nicht. Die Wörter dieser Sprache sollen sich auf das beziehen, wovon nur der Sprechende wissen kann; auf seine unmittelbaren, privaten, Empfindungen. Ein Anderer kann diese Sprache also nicht verstehen.
「しかし、誰かが---感じや気分---というような内的な経験を、自分の用法のために書き留めたり、発語したりできる言語はありうるのか。私たちは普通の言葉(語り)で、それをすることができるのか。しかし、私の考えはそうではない。これらの言語の語りは、ただ話し手のみが知りうるのである。だから直接的で私的な感覚を指し示すはずなのである。他人はこれらの言葉を理解できないのである。」(Philosophische Untersuchungen, §243)
人は直接的に私的な感覚を指し示すことは可能である。だが、それが可能だということが、それが伝達されるということにはならない。話し手のみが自分自身に対して確認しうる表現あるいは発語というものがある。たとえば、人は自分の言語で思考する場合もあれば、必ずしも言語がともなわない思考も存在する。いわば言葉にならない驚嘆や憤りなどの感情が言葉に先行する場合もある。言語以前の直観もまたそのようなものであろう。それらは人の外部に何ら尺度や座標を見出さない表現なのだ。そのような発語では、他者が発語者を了解するためのメルクマールが曖昧な状態でもある。ヴィトゲンシュタインは次のように言う。
258. Stellen wir uns diesen Fall vor. Ich will über das Wieder‐kehren einer gewissen Empfindung ein Tagebuch führen. Dazu assoziiere ich sie mit dem Zeichen »E« und schreibe in einem Kalender zu jedem Tag, an dem ich die Empfindung habe, dieses Zeichen. –– Ich will zuerst bemerken, daß sich eine Definition des Zeichens nicht aussprechen läßt. – Aber ich kann sie doch mir selbst als eine Art hinweisende Definition geben! – Wie? kann ich auf die Empfindung zeigen? – Nicht im gewöhnlichen Sinne. Aber ich spreche, oder schreibe das Zeichen, und dabei konzentriere ich meine Aufmerksamkeit auf die Empfindung – zeige also gleichsam im Innern auf sie. – Aber wozu diese Zeremonie? Denn nur eine solche scheint es zu sein!
「定義は記号の意味を決定することに役立つ。そこへ注意を向けることによって、その感覚と記号とのつながりが刻みつけられる。その感覚にともなう記号のつながりが起こる。「私の心に刻み付ける」ことは、私が将来にそのつながりを正しく覚えておくことに効果があるとのみ言える。しかし、私たちの場合、記号についての基準などないのだ。人はここで「正しいというのは、ともかく正しいものと私に思われるということである。」と言うことができるかもしれない。そして、そのことはここでは「正しい」ということが語られることができないとのみ言えるのである。」(ibid., §258)
少し唐突に思われてもご容赦願って、説明のために私の詩を使わせていただきたい。
UFO
アンカレッジ到着三分前
もう氷河や自動車すら見える高度だ
雪の大地に
確かな光体を見たのだけれど
「見た」という「事実」について
「フラッシュのように光を放ち移動した」と
語ってしまえば終わりだ
かかわる形容詞がない
動詞も
述語がないのだとしたら
あらゆる事実は方向を失う
僕らに
「見た」僕はありえても
見られたものが存在するなどと
とても言えない気がして
僕の行為は確かに存在したなどと
言い切るだけで終わっていく
一九八八年一月十五日
大阪発AF273
あるいは
世界とは方向のない「事実」だった
などと
僕は言いたくはないのだけれど
これは実際に私が着陸前のジェット機の窓から大地を見た時に、見えたものについて書いたものである。この詩は私的言語ではないと言いたい。しかし、その事実を確認する標識のようなものがない。あっても、それは未確認な物体(UFO)なのだ。ヴィトゲンシュタインは次のように言う。
272. Das Wesentliche am privaten Erlebnis ist eigentlich nicht, daß Jeder sein eigenes Exemplar besitzt, sondern daß keiner weiß, ob der Andere auch dies hat, oder etwas anderes. Es wäre also die Annahme möglich – obwohl nicht verifizierbar – ein Teil der Menschheit habe eine Rotempfindung, ein anderer Teil eine andere.
「個人的な経験において本質的なことは、本質的なことは、各人が固有の標本を持つことではなく、他人も同じものを持っているのか、それとも別のものを持っているのかを誰も知らないという点にある。それは予測が可能でもある。それでも、検証可能ではない。たとえば、一部の人類は赤いという感覚を持ち、ほかの一部には別な赤の感覚があるというように。」 (ibid., §272)
私的な感覚や思考には、時には意味を共有しているようでいて、実体的な共通性を確認することはできない。例えば、何を論じているかが他者に対しては欠落するのである。それはヴィトゲンシュタインが歯痛について語るのと同じことである。いかなる他者の痛みの表明も、痛みそのものとしては誰一人感じることはできないのである。歯が痛いということについて実際の痛みとしては伝達できないのである。仮に伝達されるとすれば、それは発語された者がそれまでに経験した歯痛を思い起こすことによって発語者の歯痛を想像しているのである。