コギトと外部世界(1/6)

堀 剛

第1章 デカルトのコギトの一側面

 デカルトは「方法序説」、「省察」にて「我思うゆえに我あり」と述べた。「省察」では「「私は在る、私は存在する」Ego sum, ego existoという命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに真である、と」(ルネ・デカルト『省察』p.45、山田弘明 訳、ちくま学芸文庫、2009年第3刷)述べられる。

 しかし、デカルトのこのような推論は客観性を持つものではなく、デカルト個人の思惟の中で自己の存在確認を行っているに過ぎない。そこから一歩出て、他者との関係構造の中で自己が実体的に存在するとは一言も語ったことにならない。

 更に「省察」を見てみよう。

「私は在る、私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か?すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。」(ibid., p.47)


彼の言葉から分かるのは、「私が考える間」のみそれは確かなのである。すると、それは他者との関係において「私(デカルト)」の自我が存在することを示すものではなく、デカルトの精神において、彼の思考が彼自身に関係するところの関係として「私」がそこにいるということを述べているだけである。彼自身の意識においてのみ「彼」の自我が存在すると表明しているのである。このようにどこまでも自己との対話として、自己の存在確認を行おうとしているに過ぎない。それゆえ、彼は次のようにも言う。


「私は、私が存在することを知っており、私が知っているその私とは何かを探求しているのである。」(ibid., p.48)


すると、いかなる思惟においても彼の思惟から一歩たりとも外部に踏み出しているものはない。自己が自己に対して存在確認を行う思考作業は内的なものとして論じられ、コギトの確実性は他者に対する関係性の中で自己の存在を根拠づけるものではなく、コギトを考えているその人の内的な事実を自ら確認するにとどまると言わねばならない。内部確実性は論証されているが、公共的基準を持たないのである。

彼がどう思うかは誰にも分からないし、人は他人の心を直接的には了解できないのであるから、その思惟の存在すら他者に自動的に伝わることはありえない。よって、「我思う、我あり」はデカルトの精神内部での事柄ということになる。

 デカルトの言うように。疑い得ないものとか、疑いうるものというものが自己の外部にあるものだとすれば、そこに差異を論じることはできても(すなわち、デカルトでは疑いうるということができても)、コギトの発見以後も自己の外部に対しては、いかなる存在についても、存在する外部の者へ何らかの判断が可能であるとか、ましてや、それは真理であるという言い方へ一足飛びに飛躍する棒高跳びのような離れ業にはならない。私はいまだ死とは何かを知らない。知らないものをどうして恐れる必要があるだろうかとソクラテスは言った。ソクラテスの言葉には死が不可知なものであるとしても、死は訪れることを前提としている。すなわち、疑いうるとか、あるいは理解しうるとかとは関係なく、死は訪れるのである。そして、疑いえることと実在することは本質的に異なるのである。よって、コギトから出発することは自己の存在確認とはなりえても、自己の外部世界の存在確認とはならない。

 また、疑いうるということが、すべての外部を偽であると却下することにもならない。コギトのように疑い得ないということが、そのまま実在的に疑い得ないということにはならない。疑い得ないのは、コギトがコギト自身を意識しているということにおいてのみ思考しているという自己を疑い得ないというだけのことである。すなわち、コギトが他者に対して存在すると言い得たことにはならないのである。現にコギトは他者からすれば、その存在を認識することなど到底できないことである。

 それゆえ、デカルトは「我思う、我あり」とのみ語ったことにしかならないのである。デカルトはコギト発見以後、生得観念が神によって与えられたものと前提することで、自己の観念の対象であるすべての個物が疑いなく存在するという論証を行っている。だが、デカルトがコギトをひたすら我という領域で考察しているに過ぎず、デカルト自身の「我(デカルト)」という内部でコギトが論じられ、自己確認されているに過ぎない。いきなり、我の思考の外部にまで個物についてのコギトによる認識が及ぶというのは、飛躍に過ぎると言わねばならないだろう。