八木重吉の詩に於ける死の美化について(4/5)

堀 剛

八木は内村鑑三の語る再臨信仰の影響を受けたこともあったようだ。処女詩集『秋の瞳』(1925年・大正14年)の中に「怒れる相」と言う作品がある。

ああ風景よ 怒れる

すがたよ

なにを そんなに待ちくたびれているのか

大地から生まれいずる者を待つのか

雲に乗ってくる人を

ぎょう望して止まないのか

1969年(昭和44年)白凰社発行の『八木重吉詩集』(P.180以下)の後書の中で、編者鈴木享がこの詩について述べている。

「重吉が実質的に詩作を開始したと考えられる時期は、大正10年である。五ヵ年にわたる欧州大戦は、すでに大正7年の末に終息し、戦後恐慌の不安な世情に、デモクラシー運動の波が広く深く浸透しつつあった。詩壇では・・・・民衆詩派がその主導権を握るという事態がおこっている。 ・・・・左翼系詩人たちもようやく戦列につこうとしていた。かかる激動期の中で、彼は詩作を開始したのだ。詩集と聖書を、読書の対照としてもっとも好んだという彼が、そんな詩壇の動向に無関心だったはずがない。従来、彼は詩壇からも時代からも超絶した詩人のように考えられがちなのだけれども、それは違う。 ・・・時代への関心の度合いも痛切であった」。鈴木はこのように述べて、この詩を八木の社会意識の表れとして引合いに出しているのこの詩はキリスト教的な終末論を題材にしたものであるが、鈴木の言うように、「時代への関心の度合いも痛切であった」とまで言い切ることが出来るであろうか。再臨信仰を社会意識の裏返しの現象として理解することはできても、それ自体が積極的な社会への発言と見なしうるものだろうか。少なくとも、八木が終末論的な信仰や意識を持っていたことは伺い知ることはできる。だが、八木が社会意識をこのような終末論的な神話的なものにすり替えようとする限り、逆に、現実を逃避した意識の露呈が読みとれるのではないだろうか。

他に、八木もその時代の人であったことを思わせる詩がある。この詩は、前述の山雅房版『八木重吉詩集』に収められた1924年(大正13年)11月4日編「純情を慕ひて」という詩稿の中の一つである。

いやにすました外国のをんな

三十づらをさげてくちをむつとむすんで

しりをふりたてて元街をかつぽしていく

へん、なんのおしろいだい、

おまへらみたいな奴があるから

いつまでたつたつて地球はぐあいよくならないんだ

         (山雅房版 p122)

異国の宗教であるキリスト教を信奉する八木が、安易に反欧米という時流に流された考え方を持っていたことは滑稽でもあり、奇異である。このような発想は当時の日本のキリスト教界全体のものだったのだろうか。そのことは考えてみる必要があると思われる。ただ、八本の発言は時流に即していたことは間違いない。この詩が発表された大正13年、米国による排日法案が通過している。現在では、八木のこの詩は明らかに不当な差別意識と偏見の表現と見なすべき作品である。

関茂はこの詩について次のように言う。「重吉の場合、憎しみを感ずることさえも、キリストをおもうようすがであった。その点、つぎのような憎しみそのままの表白は、重吉においてはきわめてめずらしい例と言える。 ・・・たいせつなことは、悩み苦しみにせよ、迷いや憎しみにせよ、それらいっさいのことにおいて重吉がすなおにごまかしなくおもてを向け、体をはりつづけたということである。」(関茂著、『八木重吉』、p.197、新教出版社、1965)

関のように読むことはあまりにも八木を弁護し過ぎてはいまいか。当時の政治的な動きとの関連を無視しては成り立たない作品ではないのか。また、あえてこのような詩が山雅房版に入れられた理由は、昭和17年というこの詩集の発行年から想像がつく。太平洋戦争の渦中であり、1940年(昭和15年)には宗教団体法が施行され、翌年にはプロテスタントの合同教団である日本基督教団が結成されたのである。1942年(昭和17年)初代の教団代表であった富田総理が、伊勢神宮へ詣でて教団成立を報告したという出来事はあまりにも有名である。このような時流の中で、八木のこの詩はうまく使われているのである。従って、関茂の山雅房版についての次のような評価にも賛同することはできない。

「この詩集に大きな意味があるのは、先の『秋の瞳』『貧しき信徒』をふくむぼう大な詩稿群のなかから、山本和夫・三ツ村繁蔵によってあらたに356篇が選ばれ編纂されたということで、いわゆる信仰詩篇も数篇あり、重吉の詩業をひとわたり見わたすには、アンソロジーとしても作品の質においても最もすぐれていることである。じじつ、これによって、重吉の詩の理解者はかなり増えたのである。時代が時代であっただけ、およそプロテストとさえ見られるこの「非国民的」な詩集が刊行されたことは、それ自体興味あることであった。」(前掲書p.107)

さて、「プロテスト」といわれるほどの意味があったかどうか、すでに筆者は山雅房版の編集内容を一覧したので、筑摩書房の『八木重吉全集』などを資料として、山雅房版の全内容を一望していただければと思う。時の政権にプロテストするような詩など、八木の作品にはただの一篇たりとも存在しないのだ。

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