八木重吉の詩に於ける死の美化について (5/5)

堀 剛

さて、ほとんど愛好精神のみで読まれ、かつ全集まで出ている八木であるが、以上のような八木の作品を読んでも、誰もがなお八木を信仰の人、信仰詩人と崇めるのだろうか。もっとも信仰は一面では人間の営みであり、暗さや怒りが露呈されて当然である。その意味では、これらの作品から人間八木を読めればそれはそれで面白いのかも知れない。だが、先にも触れたが、信仰と絶望、そして死ヘの葛藤を八木が詩に託しているわけでもないので、どうしても読み手は手探りで八木のイメージをこしらえることになる。

佐古純一郎は「現代詩のむつかしい理論が、八木重吉の詩をどのようにしりぞけましょうとも、多くの病める魂や、つかれた魂を、どんなに八木重吉の詩が今までも慰めてき、そして、これからもはげましてゆくかを無視することは出来ますまい」と語っている(前掲書p.177以下)。しかし、どうだろう。死を美化する思想とは、病人を励ますものであるのか。このような論評に見られるように、褒めることにのみ終始し、公平を欠くものが多すぎると言える。

他に、草野心平が「日本の基督に関する詩は八木重吉の詩をもって私は最高としたい」(『八木重吉・未発表遺稿と回想』p.263、田中清光、吉野とみ子編、蓼書房、1971)などと語っているが、これも草野のキリスト教理解がどういうものであったのか問わねばなるまい。

今日、中学の教科書にさえ、人木の詩は登場する。今や文学的価値評価を定着させてきたかのように見受けられる。歴史の自然淘汰をくぐりぬけ、八木の詩が生き抜いてきたのは事実である。しかし、その背後にはあまりにも偏った八木重吉賛美が存在している。