オーディオとイメージ療法 2 堀 剛
催眠の中で毛布を人に見立てて抱くクライアントがそれが毛布だと分かっていないのかというとそうでもない。いくら催眠に入っていても、それが毛布であることはどことなく了解している。でも、そのようなダミーであることは承知していても、そこにあふれてくる感情はけっしてダミーではなく、いまそこで、そのクライアントが吐き出さねばならない感情が露呈してくる。
だから、抱きしめる相手は毛布であろうが、ぬいぐるみであろうがかまわない。それを抱きしめるという行為を通して、クライアントが吐き出さねばならない感情がそこにあふれる。そして、カタルシス(心の浄化)に至るのである。だから、癒されるのである。ほとんどのクライアントはそのような場面では涙があふれている。
音楽も同じではないのか。それが毛布であるのかどうかなど問題ではないように、それが「原音」であるとかないとかはどうでも良いのである。いまそこで聞き手がそれを楽しめるならば、それ以上に何もいらない。
たとえば、イヤホンで音楽を聴く地下鉄の中の高校生が原音を聴けているかどうかなど、その本人にとっても、またオーディオ道とでも言うべき四角四面な何かが世の中にあるのだとしても、それにとっても「原音」などどうでも良いのだ。
そこで、楽しめるかどうかは、「音」に「原」がついているかどうかではない。まさに楽しめているというそのことが問題であり、目標であり、すべてなのだ。
だから、仮にかつてのLP時代のようなオーディオ志向が復活したとしても、少なくとも「原音追求」というような事柄はもう意味がない話だと思うのである。
ところで、催眠を含むイメージ療法の世界は、実際にクライアントが現実と合致するイメージを体験したかどうかとか、そのイメージが真実であるかどうかによって癒されるのではない。
真実であろうが、架空であろうがかまわない。癒しの「イメージ」によって癒されるのである。だから、それは「原音」でなくても良いし、ただ「イメージ」であれば良い。