認識の共有 堀 剛
シュタイナーの様々な人智学、神智学の著作では、概して、きわめて霊的な体験自体があらかじめ存在するものであるという前提のもとに話が展開されている。それは少なくとも私には違和感があり、そこで使われている抽象語は鼻につく感じがする。
だが、彼の『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』においては、他者に対して、超感覚的な霊的世界の認識の共有をどのようにして可能とせしめるかがテーマとなっている。
このことは、一般に霊能者らがまるで霊能力の開眼を奥義として他者には伝えなかったという、神秘主義特有の在り方を打破しているとも言える。
あるいは、霊能者はたとえば透視の結果などについては、それがなぜそうなのか、どうすればそのように見えるのか等についてはまったく言及することもないにも関わらず、ひたすら、そこで披露される透視結果を文句を言わずに受け入れることを要求する。 しかし、シュタイナーの上記の書においてはそのような語りは一切存在しない。読者に超認識的世界を示そうとするのである。
これらは言い方を変えるならば、認識の共有の問題と言える。また、オカルト的な超認識的世界の問題以外にも、多くの事柄に関係する。
ところで、宗教における神秘主義というものの特徴は、どんなものでも共通して、身体的であり、それは言語化することが馴染まないものであったりする。だからこそ、「神秘」ということなのだろう。しかし、これでは伝達の手法は直接的なものではあり得ないこととなる。そして、常にそれを間接的に示すという手法とならざるを得ない。
このように考えると、最近は読まれなくなったキェルケゴールの真理の伝達方法としての直接的伝達と間接的伝達の区別の重要性もまた、思い起こす次第である。