座禅を始めてみて 堀 剛

私は、トランス・パーソナル思想に関心がありながらも、恥ずかしいことに座禅を実際に体験したことが一度もなかった。でも、先日来、機会が与えられて参禅することができた。以後、時々、自分で早朝に座禅をしている。座禅は生半可な我流では危険であるという話をどこかで読んだことがあった。だから、もう少し足が慣れたら、可能な限り参禅させていただこうと思う。

梵我一如とか自他合一などの言葉を体験的な知として感じ取ってみたい。そんな思いが座禅に興味を持っている理由の一つでもある。座禅によってそれを体験できるところまで行ければいいのだが、それはとんでもなく遠い道のりなのかも知れない。

今朝は座禅をしながら、あれやこれやと思いが巡ってくるものをどのようにも処理できずにいた。だから、開き直って考えてみた。どうして座禅を自分はしているのだろうか、これはいったいどういう意味があるのだろうなどと。足も痛むし、心も定まらない、そんな中で何でこんなことをしているのかと考えてみた。(要するに煩悩のかたまりでしかないのだが)

座禅にかぎらず何かの意味を問うということは、それを言語化することであり、言語化するということは概念化するということに他ならない。そして、概念化する瞬間に、人は客体との間に距離を措定するのである。

座禅をしている私にとってのあまりにも私極的な、あまりにも初心者的な思いつきなのかも知れないが、そのときの正直な気分と状態は、座禅はただただ足が痛いとか、結構辛いという身体的苦痛そのものであって、それを何やら格好をつけて語ってみても、嘘っぽくなる。だが、その身体性においてこそ意味のすべてであると思えた。

ふと次のようにも思った。あたかも外部から問うかのように、座禅の意味を問うことは極めて無意味である。座禅は座禅なのだ。意味とは本来、そこにあるそのものが持ち合わせているに違いない。だから、意味は外部に問うてはならないし、内部的意識に問うてもならない。意味はそれ自体であり、それ自体は意味をそれ自体の外部に持たないのだ。

座禅中に思ったのはそこまでであるが、考えてみると、意味を外側に問うということは、関係構造の中での関係の実態を述べることに他ならない。たとえば、貨幣がその典型である。関係構造が無くなれば、それはただの紙くずと化す。

そうだとすれば、「私は誰であるのか」という問いも関係構造の中で問われるものである。私は公務員であるとか、サラリーマンとか、あるいは、私は***であるという言葉の羅列においても、それはただの関係構造に過ぎず、いくらでも答えうる事がらが羅列されてしまう。

だがら、私は誰であるのかを関係構造において問うてみても仕方がない。自分が何者かはひたすら自分という存在そのものの意味であり、自分の外部でもなければ、関係に対する意味でもない。そして、神の存在について考える時、神との合一という考え方がどうしても浮上する。(もっとも、私は恐れ多くも「自分は神である」などというとんでも無い考え方は戒められるべきであると強く思っている。念のため!)

ユングが研究を推し進めたグノーシス派の中のグノーシス的キリスト教には、神との合一を唱えた書が存在する(エレーヌ・ペイゲレス著「ナグ・ハマディ写本」参照)。彼らは4世紀にローマ帝国によってキリスト教が統制されるまでは宗派の一つとして存在したと思うが、それ以後は異端とされたのである。

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