他者を癒すための瞑想 堀 剛

瞑想が自分を癒すためであるというのは当たり前の話でもある。そこで、その逆の「他者を癒すための瞑想」というようなことは可能なのかを考えてみたい。

私の友人から聞かされた話であるが、ガンになった人を癒すために、友人同士で打ち合わせて同じ時刻に毎日示し合わせてレイキという方法の念を送ったという。それをかなり長期の日数をかけて継続したそうである。その結果、ガンの進行が止まり、やがてその人は相当良くなったらしい。完治とまでは行かなかったらしいが、医師の診断よりも遙かに長期間生き延びることができたという。

こんな話は他にも知っている。私自身がキリスト教会の牧師だった頃に、これに近い話の渦中にいたことも何度かあるが、そのような経験談はともかくとして、では、本当に他者を癒す瞑想のようなものが可能なのか。それを考えてみたい。「祈り」によってどれだけ病の緩和が可能であるかというような珍しい統計もどこかで見た記憶があるが、そのような話も後日へ回すこととして、瞑想が他者を癒しうるとすれば、それはどのようなメカニズムなのかをともかく考えてみたいと思う。

ところで、催眠療法には人格交代という技法がある。これは催眠の中で誰かと対話をした後に、その対話相手の心に入ってしまうというものである。人格交代という呼び名は少し大げさな感じもするが、催眠の中で擬似的なコミュニケーションを行う方法の一つと思っていただけば良いだろう。

たとえば、年齢退行催眠においてこれを使うこともできる。仮に子どもの頃のいじめっ子と対話しているとすれば、そのいじめっ子の心の中に入ってしまうのである。そして、いじめっ子の目線から自分の姿を眺めてみる。すると、いじめっ子が自分をどのように見ていたかも分かってくる。これはゲシュタルト心理学のエンプティ・チェアの催眠的応用と言ってよいと思うが、催眠の中で行う場合は、クライアントはそのいじめっ子になりきってしまうので、セラピストがいじめっ子に向かって、どうしていじめるのかと尋ねることも可能となる。すると、「ウザイからいじめるんだよ」などと言い返されたりする。そして、いじめっ子とクライアント本人、そしてセラピストが割り込んだ格好で対話を行うのである。

このような人格交代という技法を使ってみると、いじめっ子自身も家で両親から暴力を受けていたことが分かったりすることもある。もっとも「分かった」などと言っても、もう何年も前の出来事を仮想的な世界の中で「分かった」ということに過ぎないのではあるが、相手の実情が見えて来ることが結構多いのだ。そして、いじめられたというクライアントがいじめっ子の隠れた淋しい一面などを見た時には、逆に、そのいじめっ子への理解を深めることになる。そして、更に許しにまで至ることが出来る場合もある。そうなると、そのセラピーは結構上手く運んだと言えるだろう。

でも、どうしてこんな事が可能なのか?目の前にいるはずのない人物の心の奥底が見えてくる、そんな事が本当に可能なのかと疑問を持たれる方もおられよう。エンプティ・チェアーの技法を催眠誘導無しで行っておられる方ならば、多分、それが他人の心まで読みとったものというよりは、クライアントにとっての必要な気づきを得るための技法としか思っておられないかもしれない。だから、いわばクライアントの脳内現象ですということで、本当に人の心を読み取っているのかどうかなど考える必要もないのかもしれない。

しかし、このような技法を数多く行って来た経験から言えば、どうやら多くの場合、本当に相手を読みとっているように思うのである。たとえば、会社の人間関係なども、この方法を使ってみると、嫌いな人の家庭内の苦労まで見えて来たりする。そして、少し大げさに言えば、巷で言うリーディングとか透視のような域にまで達することがある。(もっとも、断っておきたいのだが、催眠における人格交代の技法はリーディングとか透視とかいうようなものとは違って、クライアント自身がそれを見て、自分で気づくということが起こる。)

他者の心を読み取るということが催眠の中で仮想的に起こりうる理由は、私はすべての存在が根底において一つにつながっているからだと思っている。ユングが集合的無意識と呼んで、無意識が個人的なものではなく、根底においては個と個の間でつながっていると述べていることとも共通すると思うが、世界というのは一つの大きな生命体であり、すべて存在するものは互いに影響しあいながら、世界と言う全体を作り上げているのだと思う。だから、誰もが世界の一部であり、どんな人でもその例外はあり得ない。(このような考え方は、一つの仮説の域を出ないかもしれないが、これはトランス・パーソナル心理学の発想である。)

だから、仮に私という存在が宇宙の一部であるとすれば、私は他者ともつながっているだろうし、他者も私につながっていることになる。そうだとすれば、他者の意識と自分の意識がつながっているのは当然であり、人格交代の技法のようなものも起こりえて当然と思うのである。

ところで、本論であるはずのこと、「他者を癒す瞑想は可能か」ということについてはまだ何も触れていなかった。だが、もうお判りいただけたと思う。他者と自己はつながっているのだ。だから、他者の痛みは自己の痛みであり、他者を癒す瞑想は実現可能なのだと思う。

このような事をいくら言ってみても、これは実証される話ではなく、むしろ思想性あるいは信念に関する話だと私は思う。このような発想が取り留めのないことに思われる方もおられるかも知れない。しかし、仮にこのような視点に立てば、自然を破壊することは自分を破壊することであるし、なぜなら、自然と人間もまたつながっているからである。そして、この考え方から温暖化を迎えている地球規模の問題に対しても解決への糸口を見いだせないだろうか。

あるいはまた言い換えることができる。あらゆる紛争における他者への攻撃は、自分で自分を攻撃、破壊することであると。

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